主日の福音2003,8,15
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
片時も忘れることのない取り次ぎ手
聖母被昇天の祝日を迎えました。日本の事情を考慮して、「守るべき大祝日」からは外されておりますが、今でも大きな祝日、数あるマリア様の祝日の中でも特別な位置を占めていると思います。
今日、聖マリアに心を向けるにあたって、ぜひ思い出していただきたいことがあります。今日8月15日、佐世保地区では「聖母平和祈願祭」が執り行われますが、昨年と今年では特別な思いが私にはあります。それは、昨年は島本大司教様がおられたけれども、今年はその場にはおられず、天で見守ってくださっているということです。
佐世保の平和祈願祭は、個人的には忘れられないミサとなりました。島本大司教様の声を最後に聞いたのは、結局あのミサが最後だったからです。それから青年たちと巡礼に出かけ、大司教様の声をその後も聞いた方もおられたと思いますが、私たち教区民が公の声を聞いたのはあの日が最後でした。
あと2週間もすると、なくなってから1年が経つことになります。今日の平和祈願祭の共同祈願にも、司教様を偲ぶために祈願が一つ加えられたそうです。そんなことを思う度に、島本大司教様の姿が、1年過ぎてもまったく変わらない、そんな気がしております。
皆さんは、日曜日のミサにあずかりながら、島本大司教様のことを思い出すことはなかったでしょうか。私は、司祭の唱える部分で私たち長崎教区の司教様の名前を唱えますので、これまで一度も忘れたことはありませんでした。
司祭は毎日ミサをささげておりますから、疑いもなく、島本大司教様のことを忘れたことは一日としてなかったと言えます。もちろんミサの祈りの中でのことですから、毎日の生活でそれほど深刻に大司教様を思いだしていたかと言われれば、そうではないのですが、本当に大切な方のことを一日も忘れずに生活することは、案外不可能ではないのかも知れません。
大司教様は私たち長崎教区のために片時も忘れられない人でした。実は今日お祝いしている聖母マリア様、聖母が体も魂も天の栄光に挙げられたという喜びも、すべてのキリスト信者にとって大きな意味を持っているのです。
それは、大司教様の例で話したように、片時も忘れられない出来事、四六時中考えておく必要はなくても、決してマリア様のことを忘れはしないという、そういう重みを持っていると思います。ほかの言葉で言えば、私たちの信仰の底に流れる深い流れと言っても良いかも知れません。
聖母のすばらしさ、それは何よりも人間の望みを神であるキリストに取り次ぐということです。今日の福音では、マリア様は親戚のエリザベトの所に行って、神が子どもを宿してくださったことを喜び合う物語でした。救い主を宿したマリアと、我が子を宿した一人の女性という違いはあっても、喜びに違いはないのだと思います。そして、女性に与えられる特別に大きなこの喜びを、美しい言葉にのせて賛美したのでした。
また、神が人間に絶えず目を留めてくださることも、喜ばしいことですとマリアは言っています。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」。私たちは神様が目を留めてくださっていることにすぐ応えて賛美をささげるということがなかなか出来ませんが、マリア様は私たち人間を代表して、神が人間に目を留めてくださることを称えたのでした。
こうして、私たちの喜びの源に一つ一つ私たちの目を開かせ、同じように私たちにも神への賛美をささげるように、招いているのではないでしょうか。私たちがなかなか出来ない神への賛美を、こんなことに目を向けて、神様を賛美してご覧と、先にお手本を見せてくださった。マリアは先に私たちが上手に出来ない賛美を取り次いでくださった。そう思うのです。
決して忘れることの出来ない人は、たとえこの世からいなくなったとしても忘れないものです。聖母を称える今日、私たちにとって忘れることの出来ない多くの方を頂いたことを感謝しながら、今日のミサを続けてまいりましょう。