主日の福音2003,8,10
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
命に関わるパンを欠かさないように

今日の福音は「命のパン」ということが鍵になっています。ただ、「命のパンを食べましょう」というだけではありませんで、「生きる」とか「死んでしまった」ということにも触れて「パンを食べる」ことに目を向けていますから、かなり真剣な話と考えておく必要があります。

「あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べるものは死なない。私は、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」食べ物のことで、「生きる」とか「死ぬ」とかあまり考えることがない私たちには、ピンとこないのかも知れません。

ところが、私はある先輩のお話を聞いているうちに、人によっては目の前にある物がそのまま自分の生き死にに関わる問題となることを、初めて知りました。

その先輩は、腎臓に病気を持っていました。私の聞いた範囲での話なので、間違っているところがあるかも知れませんが、伝えたいところを汲んでいただきたいと思います。

その神父様は、腎臓の病気のために、水分だけには注意しているということでした。水分を外に出すことが出来ないそうで、透析で水分を外に出さないと、ちょっと言えば体が爆発して、命を落としてしまうのだそうです。「食事に制限はないのですか」とたずねたところ、何を食べるかよりも、その食事にどれくらいの水分があるかを、とても気にしているということでした。

私はこんなふうに考えたのです。「目の前にスイカがあっても、飛びつくわけにはいかない。そうめんをつるつる食べたいけれども、汁碗に浸かった麺は、命と引き替えでなければ食べられない。三日間旅行に出かけることにでもなれば、透析を受けられなければその旅行がそのまま死への旅行になる」。これはたまらないなあ、自分に当てはめて考えたときに、目の前が真っ暗になる思いがしました。

透析を受ける方が、透析前には体がむくんだりするということは聞いたことがありましたが、体に取り込んだ水分がまったく外に出ないので、体がむくんでしまうのだと具体的に教えてもらって、その怖さがよく分かりました。食べ物によっては、体に取り込むと、そのまま生き死にに繋がるような人もいるのだなあと、身近に考える機会となりました。

私たちの身近にも、同じような生活をしなければならない人がいるかも知れません。そうでないとしても、体験を分かち合ってみると、永遠に生きる食べ物に導こうとされるイエス様の話は、少し身近に感じられるようになるのではないでしょうか。

私たちは食べ物のことで今日生きるか死ぬかという危険は感じていないかも知れません。けれども、今日生きるための食べ物はぜひ必要です。今日は生きてなくてもよい、明日は生きようなどと勝手なことは言えないのです。今日生きて、明日また生きるために、体の食べ物が必要です。

では、魂のための食べ物はどうでしょうか。魂は、今日は死んでいてもよい、明日生きていればそれでよいと言えるでしょうか。今日も、明日も、魂に必要な食べ物を用意すべきではないでしょうか。私たちは疲れていても体の世話をします。同じくらいの気持ちで、魂のためにもパンを切らさないようにすべきではないでしょうか。祈りのひとときを持ち、こうしてミサに集う中で、パンを得たいと思います。

最後に、8月9日長崎原爆の日について少し触れておきたいと思います。9日の11時2分、祈りのひとときをもったと思います。その中で、亡くなった犠牲者のために祈りながら、私は喉が渇いた人のことを思い浮かべていました。

水を飲むことが命に関わることだったとしても、求めながら息を引き取ったのだと思います。今からでも良いと思いますが、私たちは祈りの中で、彼ら犠牲者のために、彼らの魂のために、命のパンを願うことにしましょう。イエス様が、永遠に生きるパンを亡くなった方々に与え続けてくださるよう願って、今日のミサを続けてまいりましょう。

次回は「年間第20主日」をお届けいたします。
(ヨハネ6:51-58)