主日の福音2003,8,2
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
かみ合わない会話から抜け出す良い方法

皆さんはふだんの会話で、話している相手と話していることがかみ合わなくて困ったということはないでしょうか。私は予想しない場所でそういう様子を目にしました。ついこの前、5・6年生を連れて佐世保地区のキャンプに出かけたのですが、あることでずいぶん手間取りまして、あー、会話がかみ合ってないなあと思ったのです。

こういうことでした。キャンプに行ってみると、全体の司会をしてくださる神父様は、集まった子どもたちを前もって作っておいた名簿に従って班分けを始めました。「会ったことのない人と班を組めば、たくさんの人と知り合いになれるなあ」と思って、とてもよいアイディアだと思って見ておりました。

ひとまず班分けが終わり、うちの子供たち4人もバラバラに班の中に組み込まれます。ちょっぴり不安そうな顔をしていましたが、よいよい、今日から明日にかけて新しい友達を作りなさいと、そんな思いで目配せしました。

一日の時間割が伝えられて、その中でのことでした。「今年のキャンプは、ロザリオの年の行事を取り入れています。みんなにもロザリオを唱えてもらいます。今から担当を発表します」というお知らせが流れました。

私はてっきり、「ロザリオの第一の神秘は、1班が唱えてください」とくるものだと思っていたのですが、このキャンプのための準備会合の中で「各教会ごとにロザリオの祈りを担当する」ということが決められていたそうで、これがもめにもめる原因となりました。

「第一の神秘は、○○教会です。ですから、担当の人はロザリオが始まるときにそれぞれの班から出てきて、マイクの前に並んで唱えてください。第二の神秘は、○○教会です。同じようにそれぞれの班から出てきて唱えます。では確認を取りますので、第一の神秘を唱える教会の子どもは手を挙げてください」

司会を進めてくださる神父様は、これで説明は伝わったと思ったのでしょうが、どっこい子どもたちには理解できず、右往左往し始めました。そのうちに補佐の神父様が、「教会ごとに唱えるなら、教会ごとに並ばせてみては?」と促したところ、いやせっかく教会の違う子どもたちの班を作ったのだからこの班で通したいと言うのです。

ちゃんと説明しているのだから分かるはずというのです。全体で集合してから、ロザリオの神秘をどのように進めていくかで、30分も時間を費やしてしまいました。端から見ていて、もめてるなあ、そんなに難しいことかなあと思って見守っていました。私が意見すれば、さらにこじれそうで、入り込めませんでした。

普段でしたら、お互いに話が30分も交わされれば、いろんな話題に話が進み、または一つのことで話すなら、結構に話は深まっていくのだと思います。ですが、今回はそうなりませんでした。この、かみ合わない会話が、今日のイエス様と群衆の間でも交わされているのです。

群衆とイエス様の会話がかみ合っていないことは、最後に交わされた会話で明らかです。群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない」と仰っています。

イエス様は、すでに命のパンを与え続けてきているのに、群衆はまだ一度ももらったことがないかのように、「ください」と言っているのです。会話がかみ合わないと非常に疲れるものですが、イエス様もさぞかし群衆とのすれ違いの会話に疲れたのではないでしょうか。

イエス様はぶっきらぼうに、「君たちとこれ以上話しても無駄だ」とは言いませんでした。ただ「会話がかみ合ってないよ」とも言いませんでしたが、両方がすれ違っていることは間違いないのでした。

こんな時に必要なのは、自分たち群衆がとんちんかんな質問をしているのではないかと、早く気付くこと、気付いて、私は変なことを質問しているようなので、正しく導いてくださいと謙虚に心を開く、耳を傾けることだと思います。

キャンプの時、司会進行をしているちょっと先輩の神父様は、経験豊富なもっと先輩の神父様を補佐の神父様としていました。ロザリオの祈りの唱え方で30分もああでもないこうでもないと時間を浪費しましたが、最後には神様を賛美する立派なロザリオをささげることができました。

どんなにすぐれた方でも、司会進行に一生懸命になれば、見えなくなる面もあるだろうと思います。すぐれた補佐をつけてキャンプを進めていたことが、かみ合わない方針から抜け出して、実りあるキャンプとできた、この経験を、私は今年のキャンプの収穫として学んで参りました。

次回は「年間第19主日」をお届けいたします。
(ヨハネ6:41-51)