主日の福音2003,7,13
年間第15主日(マルコ6:7-13)
命のぬくもりを必死に伝えようとしましたね


長崎県内にすむ私たちは、今週明らかになった事件に、大きな衝撃を受けていると思います。被害者のご家族に、心から哀悼の意を表したいと思います。
教会学校の中学生と話し合いの時間を持ってみましたが、なぜ?どうしてなの?という驚きの声がほとんどでした。
事件を振り返りながら、何かを中学生と考えることが出来るだろうかと、話し合いの中で考えてみたのですが、私たちが本当に心を痛めているとするなら、心の痛みが少年の心に届いて、いのちの重さを心底分かってもらえるように祈ることかなあと話がまとまりました。金曜日の教会学校に参加して意見を言ってくれた中学生の中には、祈ってくれた人もいるだろうと思います。
少年は、これからおそらく60年・70年生き続けると思います。どのような人生を歩むのか知る由もありませんが、自分自身が完全に出来事を把握する日がいつかやってくるだろうと思うのです。中学一年生の時に起こした事件を、思い出せる範囲ですべて明らかに出来るときがやってくると思っています。そのとき、自分に出来ることをよく考えて、振る舞って欲しいと願うばかりです。
私たちも、中には少年時代に補導された経験がある人もいるかも知れません。おそろしいことに、少年時代に補導されるようなことをしても、20年30年経つと、当時の出来事は記憶の奥に閉じこめられてしまうのではないかと思うのです。事の重大さを飲み込めない時期に起こしたわけですから、長い年月の中で封じ込められていくのではないでしょうか。
それでも、ある時はっきりと記憶がよみがえり、そこに恐ろしい自分がいて、苦しむこともあるのではないかと思います。もちろん被害に遭った方への哀悼の意を表したいと思いますし、どんな人間の慰めも届かない深い悲しみを、神様がいたわってくださるようにと願います。また、加害者となってしまった少年の心の闇に、神様が働いてくださるようにと願います。
こうした事件のさなかにも、常に働いておられるイエス様に信頼して、今日の福音を考えてみたいと思います。朗読は、弟子たちを遣わす話でした。私はその中で、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・」宣教に出かけなさいという部分を、取り上げてみたいと思いました。
何かを持っているということは、当時はそれがそのまま安心につながったのではないかと思います。パンを持っていれば食べ物の心配が要らないし、金を持っているならその場その場で必要なものを買い求めることが出来る。持ち物があることで、安心を備えているという意味だったと思います。
ですがイエス様は、この世の安心を宣教に携えていく必要はない、もっと言えば、宣教に出かけるために、この世の安心はかえって足手まといになる。そう言いたかったのではないでしょうか。
自分自身振り返ってみると、イエス様の勧めからはほど遠いのではないかと反省させられます。予備のパンがたくさんあるのです。準備していなかったときのために、以前のものをそのまま持ち出して、予備のパンで事を済ませようとする態度。これはまさしく、イエス様が警戒したパンではないかなあ、と思いました。
皆さんはどうでしょうか。「いつもと同じでよかろう」と、見直しもせずにそのまま控えとして取っておいたものをあてがったりすることはないでしょうか。同じようなことを繰り返しているうちに、相手は違っているのに以前使ったものをそのまま繰り返すと、相手への思いやりに欠けることがあるかも知れません。そうであってはいけないよと、イエス様は注意を促しているのだと思います。
最後にもう一度、痛ましい事件に戻りたいと思います。衝撃的な事件に巻き込まれた幼子。その子は危険も知らされずに、少年についていきました。ある意味で、安心となるパンも袋もお金も持たず、いのちだけを携えた幼子が、体を張っていのちの尊さを伝えようとしたのかなあと思いました。
幼子は、手を握られているあいだに、少年に手のぬくもりを伝え、命の尊さを伝えようとしていたのだと思います。ですが、少年には届きませんでした。何も持たず、体一つで命のぬくもりを伝えようとした幼子の魂を、受け取りたいと思います。そして、イエス様の癒しが、すべての人にはっきりと感じられるように、ミサの中で願うことにしましょう。

次回は「年間第16主日」をお届けいたします。
(マルコ6:30-34)