主日の福音2003,7,6
年間第14主日(マルコ6:1-6)
信仰の感性を日々磨きましょう

今日の福音書の呼びかけは「信仰者の感性(勘)を身につける」とまとめたらよいかなあと考えています。会堂で教えるイエス様を見てつまづいた故郷の人々と、人々の不信仰に驚かれたイエス様を重ね合わせるとき、人々には「信仰者の感性(勘)」が身についてなかったと感じるし、イエス様の驚きからは、すべての人に「信仰者の感性(勘)」を身につけて欲しいという思いが伝わるのです。

このことで、私は最近考えさせられるような場面を体験しました。どうしてそこでそう考えるのかなあ、という内容です。

実は火曜日の教会学校での話です。その日の福音書は嵐の湖で弟子たちが溺れそうになっているときに、イエス様が嵐を沈めて救ってくださったという話でした。もうダメだ、といういよいよの場面になると、神様の大切さに誰でも気付き、頼るものだ。みんなもそうしなさいと、話をまとめたいなあと考えていました。

湖で溺れそうになる体験は、今の子どもたちには実感が薄いので、飛行機に乗っていると仮定して、その飛行機が急に故障して、真っ逆様に落ち始めた。そういう設定で考えてもらいました。あと10数えたら飛行機は落ちてしまう。これ以上はもう何もすることができなくなってきました。さあ、あなたは最後にどうしますか?と話を向けたわけです。どう答えたと思いますか?

私が期待したこと、それはもちろん、「神様助けて!とお願いすること」でした。ですが次の瞬間私の期待は泡と消えてしまいます。一人の子どもがこう答えたのです。「5・4・3・2・1、最後の『1』で飛び降りればいい」。

最後の「1」で飛び降りる。私はおかしくもあったのですが、最後の一瞬、「5・4・3・2・1」の最後の「1」になっても、神様のことが出てこないことに、驚いたのです。このあとの私とのやりとりは、推して知るべしです。

「みんなはそう言うけど、『1』では間に合わないと思うよ」
「でもあんまり早く飛ぶと痛いもん」
「そうだよなあ、痛いよなあ・・でもさ、ほかにすることはないの?」

どうして、神様にお祈りするという一言が出ないのかしらと、助け船を出す私の方が力の抜ける感じがしました。いよいよギリギリになっても、神様は出てこないか。これまでの数年間で、「ギリギリになれば神様のことを思い出す」「最後は神様にお願いする」それだけの感覚を身につけさせることさえできていないんだなあと思ったのです。

皆さん。子どもたちの思いついた答えは、かなり例外の部類に入ると言えるでしょうか?いよいよになったとき、私たち大人は、子どもと違って神様のことを思い出せるのでしょうか。皆さんには、その自信がおありですか?ここで、「信仰者の感性」「信者の感覚」みたいなものが問われると思うわけです。

福音に登場する「故郷の人々」は、イエス様を見る「目」に明らかに問題があったと思います。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。

故郷の人々がイエス様から見つけだそうとしたのは、イエス様の人間としての要素(姿)でした。「授かった知恵」「このような奇跡」から考えれば、彼は神の子に違いない、私たちと同じ姿でありながらこれほどのことができるからには、姿形は変わらなくても、神様がおられるに違いないと、そういう見方はできなかったのでした。

飛行機が墜落し始めました。もう残された時間はわずかで、できることも限られています。これはもう、運を天に任せるしかない、あとは神様にお願いするしかない。そこにたどり着ける人は、私は「信仰の感性を身につけている人」だと思うのです。

あと残りわずかになっても、最後まで神様に心が向かないのであれば、その人がこれまでにどれだけのことを成し遂げてきたとしても、むなしいのではないかと思うのです。
イエス様は仰います。「そして、人々の不信仰に驚かれた」(6節)。「これは、神様の働きに違いない」科学や医学がどれほど進歩しようと、なくしてはならない感覚ではないでしょうか。

私が見ているもの、手にしているものから、神様に心をあげる、感謝の気持ちを神に伝える日々でありますように、ミサの中で願っていくことにいたしましょう。

次回は「年間第15主日」をお届けいたします。
(マルコ6:7-13)