主日の福音2003,6,22
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
主と同じ姿に変えられるまで

今日「キリストの聖体」の祝日を迎えました。私たちがミサに参加して、その中で拝領している聖体に、今週あらためて思いを向けてみましょう。
みなさんは、食べ物によって性格や考え方が形作られるというような話を、どのように受け止めておられるでしょうか。「その通り」とお考えの方もおられるかも知れませんし、「いやそんなことはない」と思っておられる方もいらっしゃると思います。
私はかつて、納豆にまつわるこんな話を聞いたことがありました。「納豆は粘り気があるから、これを食べると、粘り強い人間になるんだ」。真偽のほどは別としても、みなさんも似たような話は聞いたことがあるかも知れません。あるいは、そう言い聞かせて誰かに何かを食べさせているかも知れません。
積極的な話はまだ良い方ですが、納豆については正反対の消極的な話も聞いたことがあります。その人の考えでは、「納豆は発酵して臭いから、食べると頭の中が発酵していたんでしまう」のだそうです。もちろんその方は、納豆をいっさい食べない人でした。
どこまで受け入れるか、程度の差はあるでしょうが、食べ物によって、人間が形作られると考えて良さそうです。人が労苦して手に入れたものがそうであるなら、神が与えてくださる食べ物も、同じように人間を形作ると考えて良いのではないでしょうか。
とは言っても御聖体は栄養云々という食べ物ではなくて、神が人間を養っておられるという「見えるしるし」ですから、人間を根本的に造り上げることに働くのではないかと思います。たとえば聖体を拝領する人は、「隣人を自分のように愛する」(マルコ12:31)人に造り変えられていくと言って良いでしょう。
ここで福音書に帰っていきましょう。朗読された福音は、最後の晩餐の様子でした。イエス様はここで聖体の秘跡をお定めになったのですが、一から新しい儀式を興してくださったのではなくて、ユダヤ人に代々引き継がれてきた「過ぎ越しの食事」にのっとって進められました。
イエス様が何も付け加えることなく儀式を執り行っていたら、それは「エジプトでの苦しみから民を解き放ち、死から命へと導いてくださった神を思い出し、たたえる儀式」として残ったことでしょう。
けれどもイエス様は、その儀式の中で、パンを「ご自分のからだ」、ぶどう酒を「ご自分の血」と仰いました。そうして、目の前の死から救われたことを思い出す儀式から、永久の死から人を救い、永遠の命に導く食事となることを説明してくださったのです。
この食事にあずかる人は、どのように造り変えられていくのでしょうか?きっと、目の前の死を恐れて生きる人ではなく、永遠の命を希望して生きる人へと造り変えられていくのではないでしょうか。この世で認められることだけを願ったり、この世に名前そのほかを残すことだけにあくせくする生き方から、神の心に名前を残す生き方を考える人に変えられていくのではないでしょうか。
私たちはからだの食べ物には敏感です。毎日一杯の牛乳を飲めばどうなると誰かが言えば、毎日欠かさず牛乳を飲みます。一日これくらいの小魚を食べればどうこうと見聞きすれば、飛びついてすぐに実行するわけです。
そうであればなおさら、私たちが日曜日ごとにミサにあずかり、聖体をいただくことには大きな意味があるわけです。私たちを根本から造り上げる恵みをいただくのですから、年に一回きりとかでは、持続して造り上げる力にはなかなかなってくれないのだと思います。
ただ、むやみにいただくことばかり考えてはいけないと思います。聖体拝領前のふさわしい準備と、日頃の生活の中で聖体を拝領する身分であることを忘れない心がけは必要です。聖体拝領前であれば、健康な人は一時間前に食事を済ませて参加しますし、ときどき赦しの秘跡を受けてお迎えする心の準備をします。
またふだんの生活では、自分は日曜日にいただいた御聖体を心の中から追い出すような態度をとってないか、考えると良いと思います。あいつは生きていても仕方ないとか、いつかあいつにはひどい仕返しをしてやるなどと思っていては、心の中にイエス様をとどめる態度とは言えません。直前の準備、普段の心構え、共に考えておきたいものです。
今日もまた、感謝のうちに聖体を拝領できます。私を根っこから造り変えてくださる神の恵みを、心と体で受けましょう。イエス様のどれか一つを身につけて生きる人に変えてもらえるよう、続けて祈ってまいりましょう。

次回は「聖ペトロ・聖パウロ使徒」をお届けいたします。
(マタイ16:13-19)