主日の福音2003,6,15
三位一体の主日(マタイ28:16-20)
不完全であることを思い悩まなくても良いのです
今日の朗読の中で一つ引っかかるのは、弟子たちが指示された山に登り、イエス様とお会いする中で、「疑う者もいた」という部分です。ここでは物語の初めが「十一人の弟子たち」と前置きされているので、明らかにユダがいなくなってからの話なのですが、それでも「疑う者」がいたことになっています。
弟子たちでさえ、三年間イエス様と生活を共にした弟子たちでさえ「まだ信じられない」部分があったというのですから、イエス様を信じて生きていくこと、これっぽっちの疑いもはさまずに信仰生活をまっとうすることは、ほとんど不可能に近いということが示されたのかも知れません。
弟子たちの間でさえ「それでも、まだ信じられない」という姿が見え隠れしたことは、私たちにとって何か意味があるのでしょうか。福音書を書き残したマタイが、あえて書いたのですから、何かの意味があると思います。私たちとのつながりで、考えてみましょう。
こう考えてはいかがでしょうか。弟子たちは、「それでも」信じられずにいる者がいたのです。イエス様に選び抜かれた弟子でした。イエス様が愛し抜かれた弟子でした。「でも、それでも」人間としての弱さを持ったままの弟子だったのです。
つまり、人間として完全だからイエス様の弟子なのではない、これっぽっちも疑うことを知らないから、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けに行きなさいと言ったわけでもない。弱さの中でも、信仰は徐々に固められ、完成されていくことを、私たちに分かってもらいたいのではないかと思うのです。
今日この日曜日は、三位一体の主日と言って、父と子と聖霊の神をたたえるために特別に名前が付けられたお祝い日です。三位一体の神様について、洗礼のお勉強を受けたときに何かしら教えてもらった人もいるでしょう。また、このような日曜日の説教でできるだけわかりやすくと、心を砕いて話しても来ました。
神はお一人ですが、三つの姿(格)を持っていること。神が完全な愛をお与えになって、完全な愛を受け取るためには、唯一の神の中に三つの働きが考えられること。神が人となるためには、人をこれほどまでに愛するための完全な愛が必要で、人となるために源として神がおられてはじめて神が人間となっておいでになれるということ。さまざまに説明することはできます。
ただ、「でも、それでも・・」なのだと思うのです。「でも、それでも、三位一体の神様のことはよく分かりません」。こんな思いは、やはりどこかで拭いきれないのではないでしょうか。考えれば考えるほど難しい問題に見えてくるのではないでしょうか。
「でも、それでも分からない」と、神様のお姿について疑いを差し挟んでいるとき、私は不信仰者なのでしょうか?不信仰の罪を犯しているのでしょうか?いいえ、私はそうは思いません。神様のことをよりよく知りたい、曇りなく分かりたいという思いからわき出たものなのですから、なにも心配は要らないのです。
弟子たちの姿を思い起こしましょう。ご自分が前もって仰ったとおりに、イエス様は十字架にかかり、いのちをささげ、三日目に復活なさいました。これほど大きな奇跡を起こしたいエス様を前にして、「でも、それでも」疑う弟子がいたのです。その弟子は非難される弟子でしょうか?そうではないと思います。「分からない、まだ信じられない」と思い悩んでいるのは、「曇りなく信じたい」気持ちの裏返しだからです。
イエス様は疑う弟子のことで心を痛めたでしょうか?そんなことはありません。その弟子も、いつかは完成されることが分かっていました。イエス様にはいっさいの者が委ねられていたのです。どうしても疑いの闇を取り払うことのできない弟子も、イエス様はご自分の弟子として使ってくださるのです。
私たちにもイエス様は同じように働いてくださいます。私たちは三位一体の神をお祝いしていますが、完全に分かったことを喜び合っているのではありません。それでも良いのです。いつか、イエス様があなたにとって十分に分かるようにしてくださいます。そして、今のままでも十分に弟子として使ってくださるのです。
イエス様の懐の深さに信頼を寄せて信仰の道を歩み続けていきましょう。三位一体の神をたたえる中で、父と子と聖霊への理解も徐々に完成していただけるように、ミサの中で恵みを願いましょう。
次回は「キリストの聖体」をお届けいたします。
(マルコ14:12-16,22-26)