主日の福音2003,6,8
聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
遠足を楽しんで、新しい言葉を話します

聖霊降臨の祝日を迎えました。過ぎた一週間、私は司祭の黙想会に参加していたのですが、太田尾小教区のことを一つ気にかけて一週間を過ごしておりました。気にしていたこととは、疑いもなく日曜日(今日)の天気であります。

「御昇天は晴れで、聖霊降臨は恵みが降り注ぐ雨と決まっているんですよ」と言われて、これは祈らなければと思い、ひたすら天気のことを祈り、天気予報が目に飛び込めば、大島の天気を目を皿のようにして見ておりました。

黙想会では、東京の森司教様という方に指導をしていただきました。森司教様は、福音書をていねいに解き明かしをしてくださって、私にとっては目からうろこが落ちるような思いでした。

先週でしたか、「新しい言葉を語るとは、何も外国語をペラペラ話すばかりではありませんよ」ということを話したと思うのですが、森司教様のお説教は、ちょうどそれが当てはまるようなお話でした。

お話の中で取り上げた中身は、一つは福音書を書き残した人たちがどのような人間理解を持っていたか、ということでした。イエス様のことで話したいことは山ほどあるけれども、一番効果が上がるように伝えるためには、聞く人のことを十分理解しなければなりません。

司教様がお話になったたとえをここでも使わせてもらえば、重大な病名を告げられた人に、いちばん効き目のある話は、治療薬の話だし、家を差し押さえられた人にとっては家を取り戻すとっておきの方法を聞きたいはずで、いちばん聞きたいことは何だろうかと、聞き手になる人々のことを福音記者たちはこう捉えていたのではないかと、詳しく解き明かしてくださったのです。

お話くださったことは、私たち自身も学んだことでしたし、その後も学び続けてきたことでしたが、私たちがたどり着いた答えではなくて、とても新鮮な答えを示していただいたのでした。さすが、ご本を何冊も出しておられる司教様なのだなあと、つくづく感心した次第です。

もちろん、私たち皆が森司教様になることはできませんし、そうなる必要もないと思います。聖霊降臨の日を今年は教会遠足の日と決めましたから、遠足をしながら新しい言葉を語ることを考えてみましょう。

私たちはこの遠足の日を迎えて、どのような新しい言葉を語ることができるでしょうか?それは、教会の家族皆で、大いに喜び楽しむことです。何か特別な言葉は要りません、私たちの言葉で、大いに楽しめばけっこうだと思います。

どうしてでしょうか?それは、私たち教会の家族が楽しんでいるあいだに、どなたか知り合いの方が登ってくるかも知れません。そのとき、きっと尋ねるでしょう。「今日は何があっているの?と」。そしてみなさんはきっと答えるでしょう。「教会の遠足で、今日はここまで来ているのよ」と。

それだけでいいのです。十分です。みなさんが「教会の遠足です」というだけで、きっと神様のこと、教会のことに心を向けるでしょう。それも、「教会の人たちは、楽しいことをするのだなあ」と思うのではないでしょうか。神様を信じる人たちが喜び合う様子で神様のことを伝えられるなら、何とすばらしいことでしょう。

今年の遠足を大きな喜びとするために、私たちは教会の喜びをこうして表すことができると、自信を持ちましょう。神様を信じる人が、喜びを伝える人だということを、今日の遠足でお互いに確かめ合うことができますように、

次回は「三位一体の主日」をお届けいたします。
(マタイ28:16-20)