主日の福音2003,6,1
主の昇天(マルコ16:15-20)
私も新しい言葉を話すのです
ご昇天のお祝いを迎えました。例年この日に山登りを計画していたわけですが、今年は一週ずらして、聖霊降臨のお祝いに回したいと思います。一週ずれたことで、もしかしたらご迷惑をかける方々も出てくるかも知れませんが、どうぞお許し下さい。
福音に入っていきましょう。イエス様は弟子たちに宣教の使命を委ねたのち、天に上げられ、神の右に着かれました。福音をのべ伝えなさい、信じる者にはしるしが伴うと仰いました。宣教する人のしるしを見て、信じる人は安心して信仰を受け入れることになるというのです。
弟子たちは自分の足で宣教に出かけていったわけですが、言い伝えによるとかなり遠くまで出かけた人もいたようです。たとえばトマスという弟子は、インドまで出かけていったと言い伝えられています。遠くに出かけて宣教するということは、並大抵のことではなかったと思うのです。
宣教する人、宣教を通して教えを受ける人。どちらにも困難が予想されます。宣教する人にとっては、言葉の違いを乗り越えて教えを伝えなければなりません。見たこと聞いたことを話そうと思いますが、言いたいことをちょうど言い当てる言葉が見つからないということもあるでしょう。
また、生活習慣の違いから、食べる者に困ったり、人と同じように振る舞うことができなくて変人扱いされたりしたのではないでしょうか。ヨーロッパからアジアに宣教に来た人たちが、苦労しただろうということは十分に考えられます。
聞く人たちもそれは同じことです。羊と羊飼いのたとえを話されても、羊も見たことなければ羊飼いもいないとなると、聞いているがわも導き手であるイエス様、羊のために命を捨てるイエス様という姿がなかなか理解できなかったのではないでしょうか。
どちらにも難しいと感じることがあったと思います。けれどもイエス様は、両方が感じる困難を乗り越えるために、しるしを伴わせてあげるとはっきり仰って下さったのでした。宣教する人、教えを聞く人、どちらも困難を乗り越えるために、しるしを用意してあげようと仰るのです。
そこでどんなしるしが、という問題になるのですが、朗読したマルコ福音書は「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という書き方をしています。
もし、そのままこれを見ることができたら、人を集めることができるでしょうね。悪霊につかれた人というのは最近あまり聞きませんが、かつてはよくそんな話を聞きました。私自身も、目の前で、マリア様が私にこのメッセージを書かせてくださったと仰るご婦人に出会って、ちょっと困ったことがありました。たくさんの人が見ている前でしたから、そこでそのご婦人がすぐに正気に戻ったとしたら、私も評判になったことでしょう。
「こんなことが目の前で起こったらすごいだろうなあ・・」同じことは、ほかの不思議にも当てはまると思いますが、あまり、この表現にしばられる必要はないと思います。ここに並んでいる不思議を通して言いたいのは、「私たちに宣教するこの人には神が共におられるのだな」ということが伝わるよ、ということではないでしょうか。
一つ取り上げてみます。「彼らは・・新しい言葉を語る」とありますが、外国語を話すことばかりが新しい言葉ではないと思います。今まで考えてもみなかった新しい見方とか、どんな言葉でも心を開くことができなかったのに、今日の励ましでやっと心を開くことができた。もしそうだとしたら、あなたは新しい言葉を聞いているのではないでしょうか。
キリスト教を信じることができなかった人が、時間はかかっても、身近なキリスト信者の姿や言葉を通して、今ようやく信じられるようになってきた。きっとその人の中には、新しい言葉が宿っているのではないでしょうか。
イエス様は弟子たちを始め、イエス様を信じる人をすべて世の中に送り出してくださいます。きっとあなたを通して、キリストを信じる人が現れるよ。あなたにとってちょっとした祈りをすることは別に特別なことでなくても、違う人には新しい言葉、神様に心を開くきっかけになる言葉になるんだよ。そう言って私たちを勇気づけて、送り出して下さるのだと思います。
神様の派遣のわざは、聖霊降臨で完成されます。これからの一週間、私の心に神様を伝える勇気を温めましょう。「どうぞ私を使って下さい」と願いながら、今日のミサを続けてまいりましょう。
次回は「聖霊降臨の主日」をお届けいたします。
(ヨハネ15:26-27,16,12-15)