主日の福音2003,5,18
復活節第五主日(ヨハネ15:1-8)
キリストにつながっていれば道は開ける

木曜日に、マリア文庫という視覚障害者を支援している方々にお話をしに出かけまして、約1時間お話をしてきました。内容は、「ボランティアの心」と題しての話でした。

もともと、お話を聞いて下さった方々は、一年間かけて「音訳奉仕者の養成」つまり書物を朗読してさしあげる人として研修を受けている方々でした。指導して下さるのは、すでに朗読奉仕をしておられる先輩方や、放送にたずさわっているNHKの職員などで指導しておられるようです。

その、受講生のみなさんに「ボランティアの心」ということで話をしたわけですが、話のポイントは、「ボランティアは、何ももらわないですること、自分のためには何もしないこと、相手のことだけを思ってすること」という三つが大切なのではないでしょうかとお話を進めました。

そうして、この三つのポイントは、実はイエス・キリストの中に完全な形で見られるのですと加えたのです。研修に参加した人は、2名がキリスト教を信じておられる方でしたが、4名は違う宗教でした。もちろんそのことは最初から分かってはいたのですが、自分がボランティアの最高のお手本を示すとしたら、迷わずキリストを示しますよということを伝えたくて、あえてそう話したのです。

イエス様の生き方は「何ももらわない生き方」でした。ただもらわないだけではなくて、与え尽くす生き方だったのですが、まあ、研修を受けている人にとっては、そこまでの話は必要なかったと思います。

また、キリストは自分のためには何もなさいませんでした。命の危険を感じても、命を狙われてさえも命を守ろうとはしませんでした。アルバイトをしなかったとか、取引をしなかったとかそんなレベルではなくて、長生きすることすらこだわらなかったわけです。

そして最後に、イエス様は私たちの救いのことだけを思って下さいました。私たちの救いのためなら、夜を徹して祈ることもいといませんでしたし、命を投げ出すことすらためらわなかったのです。ですから、イエス様の中に、ボランティアのすべてを見いだすことができますよとお話をまとめました。

また、ボランティアの精神をよく表す一つの動作についても触れました。それは、祈る姿です。祈るとき、私たちは手を合わせます。手を合わせる、それは、自分のための活動が何もできない姿でもあります。祈っている時間は、自分のためには何もせず、ただ祈る相手、神様のためにだけ時間を使う、心を向けているのです。そして、祈ったのだから代わりに何かをくれと、祈りを取引に使ったりもしません。そういうことで、祈りをよく学ぶ人は、ボランティアの精神をよく学ぶ人ではないでしょうかと、ここにいたってはあつく語ってきたのでした。

長くなってしまいましたが、今日の福音で、ぶどうの枝がぶどうの木につながっていなければ、実を結ぶことができない、もっと言えば何もできないとまで仰っているのは、私たちの生活のすべてを、キリストとのつながりで見渡してみなさいという招きだと考えました。

あなたになにがしかのことができているとき、それは、キリストとつながっているからそれだけのことができているのですよ。生命、財産、安全、すべてに神様の保護があったから、あなたは今日を迎えることができているのですよ、そういうことに気がつくようにと招いているのだと思います。

ボランティアの話にしても、私が確信を持ってボランティアとはこのようなものだと思いますと、きっぱり言うほどの体験は持っていないのです。けれども、ボランティアを、キリストとのつながりで見渡したとき、経験の浅い私にも、はっきり何かが見えたわけです。

答えを見つけだせず、自分が努力していることが本当に価値あるものなのか自信がもてないときに、キリストとの関わりの中でもう一度見つめ直すときに、それが本当に価値あるものか、ある時は横に置くことができるものか、見えてくるのではないでしょうか。
見つめ直すと言われても、何をすればよいのですか?と聞きたい方もおられるでしょう。こう考えてはいかがでしょうか。今日一日を、ぶどうの木であるイエス様に接ぎ木する工夫をすればよいと思います。

朝、今日一日があなたに接ぎ木された一日でありますようにと祈る。会社の仕事始めに、今日一日の仕事が、あなたに接ぎ木された仕事となりますようにと心で思う。子どもたちが今日一日イエス様に接ぎ木されて過ごせますように、などなどです。

こうして一日をキリストに接ぎ木しようと心がけるキリスト信者は、幹につながっている枝ですから、良い実を結ぶはずです。誘惑に立ち向かい、悪に身を任せることなく日々を過ごすことができるでしょう。

「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。ボランティアの話など、まったく自信がなかったのに、あんなに大胆に話すことができました。キリストに結びつけて考えたことで、与えられたのだと思います。本当に願うことをかなえたい方は、どうぞ、参考になさって下さい。

次回は「復活節第六主日」をお届けいたします。
(ヨハネ15:9-17)