主日の福音2003,5,11
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
命を捨てることができるのはなぜ?おしえて!
●昔懐かしの番組ですが、「アルプスの少女ハイジ」というアニメをご存じでしょうか?「口笛はなぜ・遠くまで聞こえるの・あの雲はなぜ・私を待ってるの・おしえておじいさん〜」というやつです。もしご存じなければハイジは幼い頃に両親を亡くして、から始めないといけませんが、まあいくらかは知っていることにしましょう。
●あの物語で、アルムの山にすむおじいさんのもとに引き取られたハイジは、山羊飼いのペーターとすぐ友達になります。ペーターは麓の村の山羊を預かって、山で世話をする少年でした。
●最近このアニメを最初から通して見る機会がありまして、ちょっとハイジのことについては物知りになっております。それで自分だけ知っていてもおもしろくないので、何か使えないかなあと思っていたら、今日のイエス様のたとえ話でした。羊と、究極の羊飼いであるイエス様。山羊飼いのペーターをすぐに思い出しました。
●ペーターは村から一匹の小さな山羊を預かっていました。持ち主は大きくならない山羊、乳の出も悪い山羊を処分してしまおうと考えています。少年ペーターは心を痛め、山羊のユキちゃんがおいしい乳をいっぱい作るように、香りの強い草を、危険を省みず岩を登ったり谷に降りたりして食べさせてあげるのでした。
●険しい山での出来事です。一歩間違えば、自分の命を落としかねません。それでも、預かった山羊を精一杯世話するペーターは、イエス様の仰る「私は羊のために命を捨てる」というお言葉に通じるなあと思ったわけです。
●本題に入りましょう。イエス様は良い羊飼いで、羊のために命を捨てると断言します。持ち物を捨てるのであれば、いらないからとか、思い切って捨てるとか、その辺の事情ですが、命を捨てるにはよほどの事情がなければならないはずです。どのような理由があってのことなのでしょうか。
●羊のために命を捨てるには、次のような理由でなければ無理だろうと考えます。それは、「羊の中に、命のすべてを見つけたから」「羊飼いにとって、自分の羊だったら命を捧げても惜しくないと思っているから」そういう事情ではないでしょうか。羊飼いが、命を注いで育てているのでしたら、それは羊のために命を捨てても悔いはないことでしょう。深く、命を注いだもののためなら、たとえ自分は命を失っても、注いだものの中に私が生き続けるからです。
●さらにイエス様がたとえ話に出てくる羊飼いにまさっているのは、羊と羊飼いは、人間と動物であっても、それでも限りある生き物のあいだの話です。イエス様がご自分を羊飼いと仰って、ご自分の羊であるわたしたちに命を注ぎ、命を捨てると言っているのは、命の与え主、人間の造り主である神が、造られた人間のために命を捨てても惜しくないと仰っていることなのです。それほど、私たちを愛して、すべてを注いで下さったのだと、よくよく考えなければならないと思います。
●私たちは造り主、神様のこの計り知れない愛の注ぎを前にして、ただ感謝する以外にないのですが、何かを学んで見習っていくことはできると思います。私は、イエス様に命を捨ててまで愛してもらったから、誰か身近な人を命を捨てるほどに愛していこう。そんなことを学ぶ必要があると思います。
●結婚している配偶者、また、親が子供を深く慈しむ、仕事の中で弱い立場の人をまごころ尽くして仕える。命を注ぎ、最後の一滴まで注ぐことは、今日の羊飼いイエス様を最高に学ぶ生き方だと思います。
●一つ、忘れてはならないことがあります。本当に自分が向き合っているその人は、向き合っているその対象は、命を注ぎ尽くすほどの相手であるかは、見極めが必要かも知れません。本当に命を懸けて尽くす相手かどうかは、物差しを使ってはかれば分かることです。それは、相手の中にイエス様を見つけることができるかどうか、という物差しです。
●趣味。自慢にはなりませんが命を懸けていると言い張る人もいるでしょう。けれども趣味の中に、イエス様を見つけて、命を注ぎ尽くすことなどできるのでしょうか。
●財産、名誉、地位、健康。もしあなたが命を注いでいるものが、イエス様のかけらさえ見えないもの、相手であれば、もしかしたら命を捨てる覚悟は必要ないかも知れません。家庭には、心がければイエス様を見いだすことができます。夫婦のあいだには、イエス様が絆としてとどまって下さいます。
●イエス様を見いだし、与え尽くす愛を学ぶ場を神様は一人ひとりにきっと用意しておられるはずです。イエス様の与え尽くす愛を学ぶ場所に早く私たちがたどり着けるように、ミサの中で恵みを願っていくことにいたしましょう。