主日の福音2003,4,27
神のいつくしみのの主日(ヨハネ20:19-31)
弟子たちに現れた主が聖霊を注がれた

 ヨハネパウロ2世教皇様は、今日のこの復活節第2主日を、「神のいつくしみの主日」と命名されました。そこで、福音の分かち合いに加えて、今日いただくことのできる特別な恵みと、教皇様がこの日に込められた思いを紹介したいと思います。
さて福音は、復活したイエス様が、トマスがいないあいだにまず現れ、ついで一週間後に、トマスもそろっているところへ現れたくだりが紹介されています。例年ですとここで、トマスは信じないかたくなな人間から、信じる人間へと変わったという話をするわけですが、今日はこの物語の奥にある考え方についてちょっと探ってみたいと思います。
トマスが信じないものから信じるものになったことは、冷静に考えるとトマスにとっては大事かもしれませんが、一人の人の問題にすぎません。たぶんこの出来事の教訓は、その奥に隠されているのだと思います。たとえば、自分がある人を許せないでいるときに、「あの人が土下座しない限り、私は許さない」と心を閉ざすのではなく、神の赦しの恵みに信頼して、あの人を許そう。そんな人に変わるヒントにすることは大切だと思います。
また、トマス一人にこだわらずに全体を見渡すと、イエス様はトマスがいないあいだに弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と仰って、赦しの秘跡を執り行う恵みを注ぎました。
トマスが同席した場面ではそのような話はなかったわけですが、だからといってトマスに罪の赦しの権限が与えられなかったわけではないと思います。一週間後に同席したトマスにも与えられた。つまり、司祭となって主の弟子に加えられた者には、一週間後の弟子であっても、百年後の弟子であっても、この二千年に司祭にされた弟子であっても、聖霊が注がれて、罪の赦しの権限が与えられているということが読みとれるわけです。
今年私たちは、トマスの出来事を通して、その奥にある著者のねらいを探ることで、また、全体の作りを通して、その奥にあるものを探る中で、私たちへの呼びかけを見つけだすことができました。
この朗読が繰り返し読まれる復活節の第2主日を、教皇ヨハネパウロ2世は、「神のいつくしみの主日」と命名されました。神のいつくしみを特にたたえるようにとの呼びかけなのですが、同時に、この日適切な準備が整えば、犯した罪の赦し、罪がもたらす罰の赦しを完全にいただく「全免償(ぜんめんしょう)」を受けることができると発表なさいました。
「神のいつくしみの主日」をお定めになったきっかけは、「神のいつくしみ」への信心にあります。ポーランドの聖人「聖ファウスティナ」に出現したイエスが、復活祭の次の日曜日を祝日とするように、また「神のいつくしみ」を礼拝するように望まれたとされています。
神のいつくしみの主日に、「神のいつくしみ」に対する特別の信心を行うことで、信者たちが聖霊の慰めを豊かに受け、神への愛と隣人への愛を強め、成長させます。またこの信心は、信者たちを、自分たちも赦しの秘跡で罪を赦されて、兄弟姉妹をすぐに赦すよう促します。
私の考えとして、弟子たちに聖霊が注がれて、罪の赦しのことにイエス様が触れて今日の日曜日に、神のいつくしみを特別に学ぶというのは、理にかなっているなあと思いました。
全免償の規定について、細かい内容はプリントを用意しておりますので、ご覧になっていただきたいのですが、聞いて分かる範囲のことをまとめると、(1)今日の神のいつくしみの主日に、(2)教会で、(3)全免償のための通常の条件を守って、(4)神のいつくしみの信心を行えば、全免償を受けることができます。といってもこれでも長いので、十分にプリントをお読みになってください。
昨年から今年にかけては、教皇様のはっきりした姿勢が感じ取られる一年のようです。教皇様は昨年十月から一年間をロザリオの年と定め、また今日の復活節第2主日を「神のいつくしみの主日」と命名されました。今日の日曜日、聖トマスの説教を十二年繰り返してきて、ある意味で教皇様の発表は、第2主日を完成させてくださった、すばらしい英断だったと思いました。

次回は「復活節第3主日」をお届けいたします。
(ルカ24:35-48)