主日の福音2003,4,20
復活の主日(ヨハネ20:1-9)
主から取り去られた生き方

 主の復活、おめでとうございます。昨日の徹夜祭で、捧げつくしたあとに与えられる喜びは格別だというような話しをしました。イエス様はいのちを捧げつくしたあとに復活の栄光をお受けになりました。私たちは本当に目のまわるような忙しさの中で聖なる三日間のために時間を捧げ、そのおかげで復活のお祝いを十分に味わうことができたわけです。
そして今日の福音からは、空の墓ということから、復活のメッセージを探ってみたいと思います。マグダラのマリアは、遺体のお世話をしようと思って、朝早く墓へと向かいました。朝、まだ暗いうちに出かけたのは、日が昇ってからでは自分たちの命が危ないという心配があったのかもしれません。
出かけてみると、イエス様はそこにはいませんでした。マグダラのマリアは弟子たちのところへ戻ってこう言います。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」。
とっさに口をついた言葉かもしれませんが、彼女の言葉は意味深いと思います。たしかに主は、墓から取り去られていました。ただし、取り去ったのが誰なのか、よく考える必要があります。マグダラのマリアはおそらく、「誰かほかの人間が取り去ったのだ」と考えたのではないでしょうか。
もちろん、そうではありませんでした、皆さんの中にも、なんとなく気がついた方もおられるかもしれません。イエスのお体は、神によって、神の力で取り去られたのです。肉体の滅びから、死を招いた罪から、神が御子を取り除いてくださったのでした。
私たちも、この点をしっかりつかんでおきたいと思います。何かが取り去られたとき、それはほかの誰かから、人間から取り去られたと考えず、神から取り去られた、言い換えると、今はそれが神のもとにあるのだと思うとき、新しい世界が開けるのではないでしょうか。
実は私たちは例外なく、死の運命をになっています。そこに信仰がなければ、私たちの死は命を取り上げられ、盗まれたのも同然と言えるでしょう。信仰があれば、命を取り去られたのは、盗まれたのではなく、神が取り去った、今は神のもとにあるのだと、すばらしい理解にたどり着くことができるのです。ある意味で復活を理解した人は、この世にあって神に取り去られた生き方を歩んでいる者なのです。
実は今日、新しい命を迎えた夫婦が、子どもさんの洗礼式に臨んでおります。このお子さんは、神様が命を与えてくださいました。そして洗礼を受けることで、永遠の命に結び合わせてもらい、私たち教会家族の一員となります。洗礼を受けて、この子の命は誰からも奪われることなく、神がその一生涯を守ってくださるという保証を受けるのです。
これから行われる洗礼式を通して、私たちも、誰も奪うことのできない永遠の命の保証をくださる神に心をあげましょう。そして、神に取り去られた生き方、神に命をゆだねた生き方を選ぶ決意を新たにすることにいたしましょう。