主日の福音2003,4,19
復活徹夜祭(マルコ16:1-7)
すべてを与えつくして受ける栄光
主のご復活、おめでとうございます。今年の復活のメッセージとして、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」というみ使いの言葉を選びました。お話のまとめに、この若者の言葉に戻っていきたいと思いますが、先にイエス様の復活を少し身近に感じてみたいと思います。
イエス様の復活を目で見た人はいませんが、金曜日の出来事がイエス様の復活に大切な意味を持たせてくれました。復活は、すべてを与えつくされたイエス様に約束された栄光だったということです。
何も残さず、与えつくした御子に、父なる神は栄光のすべてを、何も残さずにお与えになりました。イエス様の復活は、父なる神がお与えになる最高の栄光だったのです。
そうであれば、私たちもまた、自分に何も残さない働きをするなら、父なる神は栄光を与えてくださるのではないでしょうか。御子イエス様が、私たちの救いのためにすべてを与えつくして復活の栄光をお受けになった。私たちがイエス様に倣うなら、イエス様と同じように父なる神から報いを期待できるのではないでしょうか。
たとえば、私たちは今週大切な三日間を過ごしてきました。かなり無理をしてまで、三日間の礼拝に時間を都合つけた方もいらっしゃるかもしれません。その努力・犠牲は、自分には何も残さない純粋な信仰の態度だったと思います。
疲れている中で、忙しい中で、聖なる三日間のために時間を与えつくしてくださった。父なる神は、きっとあなたの心に報いを用意してくださいます。まずは、今日の復活の喜びを、いつもの礼拝のようにではなく、時間を捧げて、週の半ばでも都合をつけて今日を迎えたという、特別の思いがあるのではないでしょうか。
私たちは普段の経験から、すべてを出し尽くしたあとの心地よさというものを知っています。仕事であれ、勉強であれ、スポーツであれ、すべてを出し尽くしたあとは、なんとも言えない喜びがあります。
今日私たちは、日ごろの体験を信仰生活に結びつける知恵をいただいたと思います。信仰の面ですべてを与えつくすとき、私たちはすがすがしさどころではない、イエス様と同じように神の報いにあずかることができるのです。
さて、復活を告げる若者の言葉に戻ってみましょう。み使いは、次のようなことをマグダラのマリアたちに語りました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」。ガリラヤとは、イエス様と最初に出会った場所、イエス様に強く引き付けられ、イエス様に従って生きることを心に決めた場所です。
「ガリラヤでお目にかかれる」とは、もう一度出発点に立ち返って、イエス様に従って生きていこうと心に決めたなら、あなたはそのときイエス様にお目にかかれる、復活したイエス様と出会っているんだよ、ということではないでしょうか。
また、ちょっとしたことですが、イエス様は弟子たちよりも先にガリラヤにおいでになります。たとえ私たちが道にさ迷い、出発点に立ち返ることを忘れ果てたとしても、イエス様は先に出発点に行って待っていてくださる。私がどんなに長い時間かかって出発点に立ち返る決心をしても、いつでも先に行って待っているよ。安心して立ち返ってきなさいという、いつくしみ深い言葉なのだと思うのです。
きっと私たちの中には、復活祭やクリスマスといった大きなお祝いの日に洗礼の恵みを受けた方も多くいらっしゃると思います。復活祭を迎えるたびに、出発点に立ち返る恵みをいただいているのだと思います。私が望んで洗礼を受けましたが、そこにはすでにイエス様が待っておられて、恵みを注いでくださったのでした。自分で決めたことでした。そして同時に、神様はその日を心待ちにしていたのでした。
出発点に立ち返ることは、時として大きな努力を必要とします。いまさら純粋な信仰に戻れやしないとか、子どものように神の国を受け入れるなんて無茶だとか、いろいろ自分に限度をつけてしまいます。けれども、復活したイエス様は、私たち一人ひとりに呼びかけるのです。
「私はすべてを与えつくして、今日の栄光を受けた。同じ喜びをあなたにも味わってもらいたい。受けた恵みの原点に立ち返って、わたしについてきて欲しい」。信仰を受けて間もない人にも、長い人にも、新しく生きる力をイエス様は与えてくださるのです。
イエス様がガリラヤで、信仰の出発点で待っているとすれば、私たちも新しい気持ちで、一人ひとりの信仰の原点を見つめなおす必要があると思います。復活の喜びを受けて、新たな出発の日とすることができるよう、恵みを願いましょう。
次は「復活の主日(日中)」(ヨハネ20:1-9)です。