主日の福音2003,4,18
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
イエス様においてすべてが「しかり」となった

 人間にとって絶体絶命の瞬間はどんなときでしょうか?絶体絶命とは、文字通りに考えれば体が絶え、命が絶えるというのですから、死の瞬間が、人間にとっての絶体絶命のはずです。

ところが今の時代の私たちには、言葉がもともとの重さを失っていると感じています。いまどきの若者たちは「ありえない」という言葉や「超難しい」という言葉を使うそうですが、ありえないということは、本当にありえないことを言うのであって、まさか〜ぐらいのことをありえないありえないと言っているのであれば、言葉は重みを失ってきているのかもしれません。

けれども、私たちはイエスの十字架の前に、言葉の重みを真剣に考えずにはいられません。イエス様はかつて弟子たちに、ご自分が命をお捧げになることを、いろんな言葉で前もって話しておられました。「わたしは、羊のために命を捨てる」。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。

こうしたイエス様の予告は、気持ちはそうだよというだけではなかったのです。今朗読された福音の中で、十字架にかけられて亡くなられたのは、わたしの言葉には重みがあり、わたしの言った言葉は、言った通りになるということの証なのではないでしょうか。

今、イエス様は命をお捨てになりました。ところで、イエス様が仰ったことには続きがあります。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」。イエス様の言葉には重みがあって、おっしゃった通りになるのであれば、私たちはその先を信じて希望を持ち続けるべきなのです。「わたしは、それを再び受けることもできる」。これは疑いもなく、復活の栄光をさしているのです。

今、悲しむことを知る命あるすべてのものは、イエス様の死を悲しみます。けれども、死ななければならないから死ぬのではなくて、復活するためにご自分の体を死に渡されました。イエス様はご自分の死によってさえも、語られた言葉がその通りになることを証明してくださったのです。私たちはそのことを考えるとき、十字架にかけられて顔を背けたくなるありさまであっても、希望を失わず、むしろ感謝の気持ちで、十字架をあがめ、尊ぶことができるのではないでしょうか。

これから、十字架の崇敬に移るわけですが、イエス様が死を通り過ぎて復活してくださる、しかたなく死なれたのではなくて、私たちの救いのために、死を通られたことを思い、感謝の気持ちで前に進みましょう。あの当時最も人を恐れさせた刑罰すらも、救いの道具に変えてくださる神の力を、十字架を崇敬することで私たちは証しするのです。

敬虔に、十字架にはりつけにされているイエス様の前に、跪くことにいたしましょう。


‥‥明日は‥‥‥
「復活徹夜祭」
(マルコ16:1-7)