主日の福音2003,4,17
聖木曜日(ヨハネ13:1-15)
司祭であるイエスが残したもの

 今日の福音朗読の中で一番印象に残る場面は、やはりイエス様が弟子たちの足を洗ってくださったところということになるでしょうか。当時の人々は外出から帰ると必ず身を清めるために体を洗っていました。シャワーを浴びるのではなく、もしかしたら宗教上汚れた場所を通りかかったかもしれないから、身を清めていたのです。

ところがそういう意味での足を洗う動作は、かえって来てすぐに行うはずです。イエス様が弟子たちの足を洗ったのは、食事の席についていたのをわざわざ「食事の席から立ち上がって」そのようになさったのでした。どう見ても、普通では考えられないやり方だったのです。

それなら、イエス様のしぐさから、もっと別のことを見つけなければなりません。私はその答えを、かつてイエス様が食事に招待された席で、罪深い女とされていた女性が涙で足をぬらし、髪の毛で拭いてくれたという話から探してみたいと思いました。そのときも、食事の席についていたときに起こった出来事でした。

イエス様は、足を拭いてくださった女性の罪には直接触れず、彼女の愛の大きさを取り上げました。罪を犯した人でも、イエス様を愛することはできます。彼女の愛の奉仕は、食事のひと時を止めた失礼を覆って余りある大きな愛の奉仕でした。そして、彼女が犯してきたであろう多くの罪を赦していただくのに十分な愛でした。

さてイエス様の奉仕にもう一度戻りましょう。イエス様は、ご自分の食事の時間をいったん止めて、弟子たちの足を洗いはじめました。今食事をしていることと、足を洗うことで示そうとする愛とは、何かつながりがあるのではないでしょうか。

こう考えてみました。食事・食べ物は、人の口を通って体に取り込まれていきます。何も残らないのですから、与え尽くすということをいちばんよく表します。食事の席に入ってきて涙で足をぬらした女性の愛も、何かを当てにしてではなく、与え尽くす愛ではなかったでしょうか?また、イエス様が足を洗うことで示そうとした愛も、与え尽くす愛だったのではないでしょうか。

そう考えると、互いに足を洗いあいなさいとは、食べ物が、自分を与えつくして人を満たすように、自分の奉仕を、与えつくして、誰かを満たしてあげなさい、そしてお互いにそうしなさいという、最後の遺言だったのではないかと思うのです。

奉仕し合いなさいというだけでしたら、イエス様が弟子たちの給仕をすることでも教えることができたかもしれません。けれども先生が弟子の足を洗うということは、先生としての誇りも名誉も捨てて、すべてを与えつくすのでなければできないわざだと思うのです。自分の名誉を保ったまま何かをするのではなく、名誉もかなぐり捨てて、すべてを与えつくすような奉仕を目指す。これが、最後の最後の遺言だったのだと思います。

そしてイエス様は、今日の木曜日には食べ物としてご自分を与え尽くしますが、金曜日には命までも与え尽くします。何かを自分に残しての奉仕から、すべてを与えつくす奉仕に目を向けさせてくださったイエス様に、心を合わせて生活していく恵みを願うことにいたしましょう。

次は「聖金曜日」
(ヨハネ18:1-19:42)