主日の福音2003,4,13
受難の主日(マルコ15:1-39)
枝を振る群集の一人はわたし
今週一週間はイエス・キリストの出来事の中で一番重要な出来事を迎える週です。それはつまり、イエス様が弟子たちと最後の食事を済ませ、その中で聖体の秘跡を定め、金曜日には人間の救いのために十字架にかけられ、いのちを捧げ、そして最後には、ご自分がいのちを与え、いのちを受け取ることのできる方であることを証明するために、復活してくださる、これらの重大な出来事を記念する一週間だからです。
今日の日曜日は、受難の主日と呼ばれますが、もっと印象的な呼び方もあります。それは、「枝の主日」という呼び方です。今日、ミサの初めに、それぞれの持つ枝を祝福し、枝を振って行列しました。それは、あわせて朗読された聖書にあったように、イエス様のエルサレム入城を喜び迎えた、旗を振って出迎えたことの証でした。
それなのに、ミサが進んで、ただいまの福音朗読の中では、イエス様を十字架にかけよと叫び、イエス様は黙って十字架をにない、いのちを捧げていきます。枝を振って迎えた群衆が、イエス様に十字架にかかれと叫ぶ。これは驚きです。
ですが、だた驚いてばかりはいられません。十字架につけよと叫んだのは、枝を振って迎えた群集でした。そして私たちはその出来事を思い起こす中で、枝を手に持ち、「枝を振る群集」の役を引き受けたのです。そして、先ほどの朗読では、「十字架につけよ」と叫ぶ役をも引き受けたのです。
これは、偶然でしょうか?今日の礼拝に集まっている信徒の皆さんが数が多いからたまたま群集役を引き受けた、ということでしょうか?私はそうではないと思います。群集役を引き受け、枝を振ってイエス様を出迎え、「十字架につけよ」と叫んでみてはじめて分かることがあるのではないでしょうか。
群集役を引き受けてはじめて分かること、それは、「人間の罪が、イエス様を十字架につけた」ということです。「私ひとりがイエス様を十字架につけた」「あの人の罪が、イエス様を十字架につけた」というような考えではなく、誰もが背負っている人間の弱さ、罪が、イエス様を十字架に向かわせたのです。みなが弱さを抱えているから、すべての人の鎖を解き放つために、イエス様は十字架にかかったのです。
皆さんの中には、朗読の中で十字架につけよと声を出すときに、ためらう人もいたかもしれません。ですが、イエス様が十字架にかからなければ、私たちはイエス様の救いにあずかれなかったのです。私たちは自分では罪の鎖からのがれることができないのですから、イエス様にお願いするしかありません。その願いを込めて、「十字架につけよ」と声を上げてはいかがでしょうか。
私たちは今週改めて受難の金曜日を迎えます。聖木曜日は太田尾教会、聖金曜日は間瀬教会、復活徹夜祭は太田尾教会と、礼拝が続いていきます。それぞれの教会におられる方が、この三日間の礼拝に一人でも多く参加してくださることを望みます。
一人でも多く礼拝に参加してください。太田尾の皆さんは、聖体の秘跡を定めてくださった聖木曜日のミサに、間瀬の皆さんはいのちを捧げた聖金曜日の礼拝に、できるだけ都合をつけて参加してください。
この聖なる一週間を通して、イエス様の死と復活により近く結ばれることができるように、参加を通して味わっていくことにいたしましょう。
次週は「復活の主日」
(マルコ16:1-7)