主日の福音2003,4,6
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
今は恵みの時・今は救いの日

 イエス様の受難と復活を準備する四旬節も五週目に入りました。来週はいよいよ聖なる一週間となります。今週はこれまで私たちが朗読を通じて準備してきたことの総まとめとなります。
第1週では、イエス様の荒れ野での様子が描かれ、神に信頼して生きる生活を求めながらも、誘惑が確かにあることを学びました。第2週ではイエス様に従う道のりには誘惑もあるが、試練を乗り越えた先には山の上で光り輝いたときのような栄光を受けることを教えて励ましてくださいます。
3週目では、信仰をもって生きてはいても、熱意を失いかける弱い私たちを、イエス様ご自身、私たちに熱意を注いで、神に心を向けさせてくださいました。先週は、十字架を通してでも人間を救おうとされる神の変わらない慈しみに私たちは答えるべきですと招きました。
そして今週、これまでの招きを踏まえて、イエス様は幾つかの大切な言葉を語ります。私たちがイエス様を信じて、自分の生活をイエス様の模範に合わせるときは、今、この時なのだと招くのです。
私たちにはっきりした態度を求める幾つかの言葉を拾ってみましょう。まずは、「人の子が栄光を受ける時が来た」です。イエス様はご自分の命をなげうって、救いの計画を完成します。イエス様を十字架にかけた人さえも救おうとなさった。救いの計画を万全なものになさったので、それはそのまま神の誉れとなります。こうして父なる神は栄光を受けるのです。私たちにはこの結果を信じるか、信じないかが残されます。
次に取り上げたいのは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」です。きっぱりと命じています。勧めではなく、厳しく迫っているのですから、ゆっくり考える暇はなく、今ここで、態度を決めないといけないのです。
そしてこの差し迫った雰囲気を分かってもらいたくて、イエス様は「今」という言葉を繰り返し使いました。「今、わたしは心騒ぐ。わたしはまさにこの時のために来たのだ」「今こそ、この世が裁かれるとき。今、この世の支配者が追放される」。4週にわたって準備の時間を持ち、信じる・従うに足りる招きを受けたのですから、今が決断の時だということです。
もう、この世の支配者に左右されません。権力・暴力・圧力で支配できると思い上がっている人間に、私たちは左右されてはいけません。今こそ、私はキリストの導き方に従います。キリストの招きにこそ従います。人の心をとらえて離さないのは、この世の支配者のやり方ではなくて、キリストのなさり方なのだと認める時が来ているのです。
「今」という時を逃さないように気を付けましょう。今この時を逃してはいけません。私たちはここで福音を通してそのことを学んでいますが、教会は別の形でも、「今、この時」を逃さないようにと招き続けてきました。
たとえば、教会が形作られてからしだいに必要となってきた「教会の掟」というものがあります。その中に、「少なくとも年に一度は、ご復活祭の頃に聖体を受けること」という掟があります。わざわざ「ご復活祭の頃に」と念を押しているのは、「今」ということではないでしょうか?
今こそ、ご復活祭の前後です。今こそ、私たちキリスト信者は、ご自分の命を食べ物として残してくださったイエス様に養われて生きる方に向きを変えるときなのです。教会の伝統の中からできあがった掟にも、今を逃してはいけない、今を大切にしなさいと招いているものがあるわけです。
準備の時間は十分に費やしてきました。もう、あれこれとためらうときではありません。今は、イエス様の招きに歩を進めるときなのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む(この世にしがみついて生きるのではなくて、永遠の命に目を向けてこの世を旅する)人は、それを保って永遠の命に至る」のです。
一週間の感謝と、日頃十分にできない礼拝のための時間を惜しんで、この世を愛する。それで構わない、自分で選んだのだから、自分のことは自分で責任持つと言いますが、そのような生き方は、イエス様に言わせれば、命を失う生き方なのです。
これからいよいよイエス様の受難と復活に向かっていきます。この世を救うためにおいでになったイエス様が、命を捧げます。私の命を救ってくださるイエス様に従っていきますとの決意を新たにしながら、これからの日々を過ごすことにいたしましょう。


次回は「受難の主日」をお届けいたします。
(マルコ15:1-39)