主日の福音2003,3,30
四旬節第4主日(マタイ22:15-21)
継続が私たちに力を与える

「継続は力なり」という言葉があります。一度うまくいったことでも、その次同じようにうまくできるとは限りません。けれども練習を続ければ、続けてできるようになります。

また、突然お祈りしたくなってお祈りするよりも、続けてお祈りする方が、神様の恵みをよく感じることができるようになります。続けるということ、また、何かが続いているということは、力を与えてくれることが多いのです。

日曜日に教会に行くことも、「信者の義務だから」という気持ちで行くよりも、「続けて行けば、たまに行くよりも力をもらえる」と思えば、よい動機付けになるのではないでしょうか。

実は聖書朗読も、続けて読む方が私たちに力を与えてくれます。家庭で聖書を続けて読むことが難しいと感じている人も、日曜日に続けて教会に来るなら、聖書を続けて読むことができるわけです。

日曜日に聖書を読み聞くことには、ほかにもよいところがあります。教会では、旧約聖書・新約聖書の書簡・福音書と、バランスよく読み続けていくことができます。家庭で読み続けると、このようにはいかないでしょう。

また、三つの朗読は、しばしばつながりがあります。教会での朗読は、旧約聖書と、新約聖書は、深いつながりがありますよということをわかりやすく教えてくれます。

たとえば、今日の第1朗読は、選ばれているはずの民が、かつては罪をたくさん重ねて神様を悲しませたことがあったと書いています。第2朗読、新約聖書の「手紙」の一つは、それなのに神は、民を赦してくださったと教えます。旧約聖書の朗読と新約聖書の「書簡」は神様の変わらない慈しみを教えてくれました。

そして福音は、この二つの朗読をまとめてくれます。神様の変わらない慈しみを朗読の中で聞いた私たちは、どうしたらよいのでしょうか?と私たちに問いかけているのです。その答えは、「変わらない慈しみを示してくださる神を信じる」ということです。

一つの日曜日の朗読が、たがいにつながっています。そして同じことは、日曜日と日曜日にも当てはまります。たとえば四旬節という季節の朗読は、第1主日から第5主日まで、またそのあとの受難と復活に向かって、日曜日が互いにつながっているのです。

先に、「継続は力」と言いました。日曜日に礼拝に参加し続けることも、やはり「継続」することになり、「力」となっていくのです。気まぐれで日曜日に来ても、その日曜日の聖書は聞くことができます。けれども、先週の日曜日が一つの階段になって、もう一歩私を導いてくれる、育ててくれる。続けることでいただく導きや力は、気まぐれでおいでになった場合は期待できないだろうと思います。

やはり、続けることは力なのです。日曜日にミサにあずかることは、一方では義務化もしれませんが、「継続は力」ということを踏まえて考えると、日曜日に続けて教会に来ることはただ義務を守るだけではなくて、私たちを継続して養ってくれる力をもらうことになるのだと思います。

私も、続けることの大切さを話しているのですから、できるだけ、先週と今週の話が、全く無関係にならないように気をつけなければいけません。もちろん、これまでそのつもりで準備してきましたが、やはり時には、その週の話だけに終わってしまうこともあったのではないかと反省しているわけです。できれば、イエス様の受難と復活への道を、私たちの準備も深まりながらいっしょについて行くような案内を心がけたいと思いました。

そこで結論ですが、今週の3つの朗読が互いにつながって教えようとする呼びかけは、「神様の変わらない慈しみを知った私たちは、神様に自分を委ねるべきです」とまとめられるかもしれません。神の変わらない慈しみを信じること、神の慈しみの最高の答え、イエスキリストの生き方を信じること。これが、私たちに必要な答えなのだと思います。

毎日放送される戦争の様子、国に自由を与えるために、国を解放するためにと言っていますが、イエス様は、「真理は人を自由にする」と仰いました。戦争が人を自由にするなど、ひとことも言ってないのではないでしょうか。罪に罪を重ねる人間を変わりなく赦そうとされた神に、もっと違う形で私たちは答える必要があると思うわけです。

日曜日ごとに来て、聖書に耳を傾けることは、「力」となります。平和のために祈り続けることも「力」だと思います。力強く、神の招きに答える生き方を、一人ひとり探し求めましょう。人間の力に頼るよりも、神の呼びかけに答え続けることの方が、よほど力があることを、今日の聖書を通して学び、持ち帰ることにいたしましょう。

次回は「四旬節第5主日」をお届けいたします。
(ヨハネ12:20-33)