主日の福音2003,3,23
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
熱意がイエスを駆り立てる
朗読された福音は、イエス様が神殿で大暴れする場面を取り上げています。大暴れと言っても、気が狂ったわけではなくて、弟子たちが聖書の言葉を思い出したように、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」その熱意がイエス様を動かしてあのように振る舞ったのでした。
私はこれを、十戒の「父母を敬いなさい」と結びつけて考えてみたいと思います。神殿が礼拝の場で、商売をしている人たちが、巡礼に訪れた人を食い物にしていることに怒ったというのも一理ありますが、神殿にとどまっておられるのはまぎれもなくご自分の父、父なる神でした。
イエス様個人としては、商売人の行き過ぎた振る舞いは、父の前で繰り広げられていることでした。父への尊敬から、こんなことをさせたくないと思ったと考えても悪くないと思います。どれだけ神殿を大切に考えておられたか、また同時に、どれだけ父を尊敬していたかを表す良い例ではないでしょうか?
私は、父を敬いなさいという掟に触れるとき、どうしても忘れられない出来事があります。長崎の教会にいた頃の話ですが、私がその教会にお世話になるようになってしばらくしてから、父が主任神父様に表敬訪問に来たことがありました。お昼を一緒に食べて、しばらく主任神父様を交えて楽しい会話に花が咲きました。
その日、私には中学生の勉強会が控えていたので、父親に「きてくれてありがとうね」と言って別れたわけです。「うんわかった」と言って司祭館を出るところまで見送り、主任神父様に「ありがとうございました。父は安心して帰りました」と報告したら、「大波止のターミナルまで、どうやって帰ったのか?」と主任神父様に尋ねられました。
「わかりませんけど、バスに乗ったんじゃないでしょうか?」と言いましたら、雷が落ちたかと思うような声で、「バカタレ!港まで送ってこい」と叱られたんです。いや、中学生のけいこがあるので、と言いかけたところ、「そんなもんシスターか誰かに頼んで、すぐに追いかけろ」と、ものすごい剣幕でやられました。
当然飛んでいったわけですが、父はすぐに見つかりました。まだほど遠くないところで、とぼとぼと歩いていたんです。すぐに拾って、大波止ターミナルまで送ったのですが、その行き帰りに、いろんなことを考えさせられました。
当時の主任神父様は、どんな相談にも、「あんたが思うとおりにせんね」「あんたに任せるけん」と仰ってくださっていたのです。それは、十分に信頼を寄せていただいている証だと思っていました。ところが、そんな神父様に雷を食らったのですから、今まで調子に乗っていたんだなあ、そうだよなあ、よく考えたら「適当に帰ってね」はちょっとひどかったよなあと思い、改めて主任神父様の厳しさと、私の甘えを反省したわけです。今になって思うと、「父母を敬いなさい」が人に対する務めの真っ先に来ていますよと言いながら、おまえは何じゃ?ということなんです。
あのときの主任神父様のお怒りは、私はイエス様の父を思う気持ちから出たお怒りと通じるものがあると思いました。怒りそのものは感心できるものではありませんが、私はイエス様の怒りが弟子たちを立派に教育したのだと思います。
弟子たちは、その場にいる人と一緒に、イエス様の言葉を聞きましたが、弟子たちだけは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉を思い出しました。イエス様の怒りから、イエス様の聖なる熱意に触れました。私もあの当時、父母を思う熱意をもう少し学んでいたらという思いがあります。
今日、中学生9名と、大人1名の10名の方が、合同堅信式に臨みます。聖霊の賜物を受けて、大人の信者の仲間入りです。十戒を意識して生活に取り入れ、特に、私と同じ失敗を繰り返さず、父母を敬う気持ちを忘れずに成長してほしい、父母が守って伝えてくれた信仰を大切にする大人に成長してほしいと思うのです。
そして私たちも、彼らを喜んで迎え入れ、恵みを喜び合いたいと思います。時には、父なる神を思う熱意で、彼らに注意を与えることもためらわないでください。神を思う熱意からであれば、注意や忠告も、きっと伝わることと思います。
またせっかくですから、どうぞ典礼の方たちも、私が言うたといって、典礼に使ってやってください。まんざらでもないという顔で引き受けてくれると信じております。そうして奉仕に組み入れてあげて、典礼奉仕を通してかられを育てていくことにいたしましょう。
印象深いイエス様の態度で弟子たちが教えられたように、今日の堅信式が、受堅者の心に深く刻まれ、秘跡を通して教え育てられるよう、ともに祈ることにいたしましょう。
次回は「四旬節第4主日」をお届けいたします。
(マタイ22:15-21)