主日の福音2003,3,16
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
私たちに前もって知らせるイエス様

皆さんが喜ぶ話かどうか分かりませんが、ついこの前、痛い目にあった話をちょっと紹介しておきます。朝、布団から起きだして着替えていたときのことです。靴下を履こうとしていたのですが、どうも足が今まで以上に遠く感じまして、うーんと体を曲げ、手を延ばして靴下に足を入れたときでした。

首から肩にかけての筋肉がつってしまいまして、いたたたぁ!と声をあげたあとはその場にうずくまってしまいました。何のことはありません、あまりにも運動しないで怠けていたために、靴下を履こうとしただけで筋肉がつってしまったのです。

神様が与えてくださった体はよくできております。いろんな危険信号を出して、これからの準備を促します。今回は、ものすごく痛い思いをして教えてもらいました。痛さで教えようとされたのも、神様のきつーいお仕置きだったのだと思っております。反省して、少し体を動かし始めました。

さて福音ですが、イエス様は選ばれた3人の弟子に、これから先の準備を促すために、山の上で輝く姿を示してくださいました。これから起こる出来事に準備をさせるために、イエス様が一肌脱がれたのです。これから起こる出来事、それは、イエス様が苦しみを受けて十字架で亡くなり、三日目に復活する、これら一連の出来事です。

たとえば私たち人間には、病気やけがの前触れがあると言われます。その前触れに気がついたとき、たいしたことはないと放っておけば、あとで痛い目にあいます。必ず大きな病気になる前に、準備をさせる時間を与えようと、体は何かの信号を出しているわけです。ちょっとした段差につまづいたり、立ち上がったときにめまいがしたりするのは、その良い例でしょう。

イエス様も、御自分についてくる弟子たちに、これからもっと御自分への信頼が必要になってくるので、どんなことがあっても離れることのないように、目で見てよく分かるすばらしい姿を示してくださったのだと思います。

イエス様の姿が白く輝いた様子は、すばらしいと、見たままをほめたたえることができる姿だったのではないでしょうか。イエス様は、しばしば「栄光」という言葉をお使いになりましたが(福音書の中では39回)、父である神の目からは、イエス様の生涯のすべてが栄光なのでした。それは、奇跡を行い、権威ある言葉で教え導くだけではなくて、死に至るまでへりくだったことも、十字架の上で命をささげたことも、父なる神に栄光をもたらす出来事だったのです。

イエス様のすべての出来事にすばらしさを見つけ出すためには、そのための準備を弟子たちにさせてあげる必要がありました。それが、今日山の上で起こった出来事だったのです。あなたたちは今、見たこともないようなすばらしい姿を見た。それは、実は、イエス様のどの場面を切り取っても、同じすばらしさを持っているのだ、そういうことを教えるために、輝く姿を目に焼き付けようとされたのだと思います。

イエス様は見た目には、華々しいときもありましたし、理解されずにまわりに集まっていた人々が離れ去って行くこともありました。けれども、それはイエス様の考えがころころ変わったせいではありません。イエス様には、父である神の御心を行うという、変わらない思いが生涯を貫いていました。どんなときでも父である神の御心を行ったので、苦しみを受けていても、十字架にはりつけにされていても、変わらず栄光を父なる神に返し続けていたのです。今日の輝く姿は、全生涯が父なる神に受け入れられたことの何よりの証だったのです。

弟子たちは十分に考えることができたのでしょうか?弟子たちは恐れていました。「おそれ」も、怖いと思うおそれと、「ありがたい、もったいない」と思うおそれとがあります。弟子たちはまだ、出来事が常識を超えていたので、怖がっていました。いつかはイエス様の全生涯が、栄光なのだと分かる日が来るでしょう。

私たちは、今このときからでも、イエス様の全生涯が栄光なのだと受け止めることができます。もちろん私たちにも弱さはありますので、どうして苦しみを受けることが栄光なのだろうかと思うこともあるでしょう。けれどもイエス様の受けた苦しみは、父なる神への最高のささげものでした。受け止めるためには、私たちも信仰を願い求める必要があります。

今日、私たちも、弟子たちと一緒にイエス様の輝きを目に焼き付けましょう。できれば、それがイエス様の全生涯に当てはまっていることも、今日の出来事から学ぶことにしましょう。イエス様の輝きは、その場限りの輝きではなくて、全生涯が栄光であることを教える「目に見えるしるし」だったのです。

次回は「四旬節第3主日」をお届けいたします。
(ヨハネ2:13-25)