主日の福音2003,3,9
四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
私たちにとっての誘惑とは

灰の水曜日から始まった四旬節は、第1週目に入りました。マルコは、イエス様が四十日間荒れ野にとどまり、誘惑を受けられたことを記しています。ただし、ほかの福音記者のように、誘惑の内容に詳しく立ち入ろうとはしません。マルコにとっては、四十日間という長い間イエス様が誘惑をお受けになったこと、ただその一点が問題なのかもしれません。

それでは私たちも、マルコのねらいをくみ取りながら、今週の福音から糧を得ることにいたしましょう。イエス様が何はともあれ誘惑を受けられた、そこから考えられることは、どんな人も、四十日も誘惑が続けば、それは大きな誘惑になるということだと思います。

イエス様がどのような誘惑をお受けになったのか、具体的なことはわかりません。けれども、たとえば、心も動かないような誘い、誘惑であれば、それに四十日も耐え続けたと書くのは筋が通りません。3日で興味のなくなる誘惑であれば、イエス様を誘惑するには不足なのです。言い方は変かもしれませんが。

たとえ、誘惑の中身を私たちが知り得ないとしても、きっと、四十日もそのことに思い悩み、食べ物ものどを通らず、何かに簡単に飛びつきたいと思ったり、心はさまざまに揺れたのでしょう。そうであれば、四十日もの間誘惑をお受けになったと書き残すことには意味があります。

私たちにとっても同じことが言えるでしょう。長く苦しい誘惑であれば、それは私たちにとって意味があり、私たちを作り上げるための試練となります。イエス様が先に模範を示してくださいました。長い時間誘惑に耐えることによって、神のことばに養われ、ただ神のみに仕え、神のみを礼拝すること、これらを教えてくださったのです。私たちも、長く苦しい誘惑を通れば、神に自分をゆだねて生きる道が開けてくるのではないでしょうか。

では私たちにとっての長く苦しい試練とは何でしょうか?例としてこんなことを考えてみましょう。私たちは同じことをし続ける中で、長く苦しい試練を味わうことがあるのではないでしょうか?一つの仕事を続けていくこと、今の生活を守り続けること、決められたことを決められたとおりに果たしていくことなどです。

自分で探した仕事、希望通りに見つかった仕事があるとします。けれどもその仕事が生涯を通して楽しみを与えてくれるとは限りません。好きで好きでたまらなかった仕事が、ある時いやでたまらないものになる時期があるかもしれません。

また置かれている生活が、楽しくて仕方がなかったのに、ある時期とても苦しく感じることがあるかもしれない。決まった時間に決まった祈りをささげる、朝の決まった時間に起きるとか、かつては何ともなかったのに、十年、二十年たってみると、苦痛に感じてきた。これらはどれも、ある意味での「長く苦しい試練」なのではないでしょうか?

そう考えると、私たちにはふさわしい試練が神から与えられているのだと思います。3日で乗り越えられる試練ではなくて、何日も、もしかすると何年も続く試練になるかもしれない。この試練が、イエス様が荒れ野で体験した誘惑なのだと思うのです。

そうであれば、私たちはこれらの試練を避けて通ることができません。逃げるというのであれば、それはそのまま、生活を投げ出すということを意味するからです。そうではなく、長く苦しい試練ですが、イエス様とともに試練に耐えることで、乗り越えていける、試練を通して神により頼む生き方が造り上げられていくのだと思います。

私が、今長く苦しい試練にさらされているとすれば、それは、イエス様と同じ道を与えられたということです。イエス様は超人だったから誘惑に耐えることができたというのではありません。イエス様は生身の人間として、誘惑に立ち向かったのです。神として四十日過ごしたのであれば、悪魔の誘惑など何の意味もなかったはずです。

私たちが、イエス様と同じ場所に置かれているのであれば、乗り越えていく方法も同じはずです。今日の福音書には書かれていませんが、答えは、神の言葉によって生きること、神により頼んで生きることです。

キリストと同じ四十日を通るなら、キリストと同じ復活にも導かれます。試練も含めて、これからもイエスの歩まれる道をついていくことにいたしましょう。

次回は「四旬節第2主日」をお届けいたします。
(マルコ9:2-10)