主日の福音2003,3,02
年間第7主日(マルコ2:18-22)
文字は殺しますが、霊は生かします


私が今日最初に切り出すネタは、本邦初公開ではありません。きっと五年前に黙想会の中で聞いたことがあると思います。ゆるしの秘跡の中でのちょっとしたエピソードです。

ある小学生のゆるしの秘跡でした。その子はゆるしの秘跡の作法をみっちり教え込まれたらしく、すらすらすらとやりとりを進めていきました。「前のゆるしの秘跡はいついつしました。罪はこれこれです。今日までの罪を告白いたしました。赦しをお願いいたします」。

感心な子供だなあと思いまして、償いのお祈りを伝えてから「悔い改めの祈りを唱えてください」と言いましたら、「神よ、あなたはわたしに背いたことを心から悔やみ、お助けによってこの後罪を犯さないと、堅く決心いたします」とやりました。

たぶん、お気づきかと思いますが、その子は言い間違えたのです。「神よ、あなたはわたしに背いたことを心から悔やみ・・・」「おいおい、そんなことは心から悔やまんちゃよか」「堅く決心いたします」「それを決心してどうするか」とやりとりしたんですが、今の私だったら、「大人げないなあ、ちゃんと唱えているつもりで言っているんだから、そのまま流して進めればいいじゃないか」と思うかも知れません。ただ当時は、ここで間違いを指摘してあげないと、いつまでも同じように言い続けるに違いない」と思ってのことでした。十一年もたつと、それすら「ほかの神父様はこの子の言い間違いに気付くのかしら?」と思って、やり過ごすのかも知れません。

このたとえを引き合いに出したのは、次のことを考えてほしかったからです。この子は、ゆるしの秘跡を立派に果たしたと思います。たとえ言い間違えたとしても、神様には十分伝わっています。

ところが、当時の中田神父は、言い間違えたことにひどくこだわり、この子の神様への思いを大切にしなかったのかも知れません。私は神様へのこの子の態度よりも、字面に注意が向かっていた。文字にこだわるなら、その子の気持ちを台無しにしてしまうという、典型的な例だと思うのです。

さて福音ですが、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちが断食しないと言ってイエス様に詰め寄りました。これまた、字面にとらわれた人々と、弟子本来の姿を十分に知っているイエス様とのぶつかり合いだと思うのです。

断食そのものは、その当時だれからでも称賛される苦行でした。けれども、神は人間に、苦行のために苦行を求めたのではありません。それは、ほかの場所で神殿に詣でて祈る二人の人のたとえ話でも説明されています。神殿で「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を納めています」と声高らかに祈った人を、神は良しとされませんでした。彼が断食をすることを目的にして断食していた、神へのささげものとしてよりも、威張るために断食をしたので受け入れられなかったのです。

ほかにも、「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と仰いました。人に見せるために断食するのではなく、隠れておられる神に、犠牲の気持ちを伝えなければならないからです。イエス様は詰め寄った人々にこう言いたいのです。あなたたちの言う断食には、人に見せようとする部分がないと言い切れるか?あなたたちの犠牲は、神の心を思いながらの断食なのか?」

イエス様はご自分の弟子の態度に難癖を付ける人々に、わたしが、「まことの弟子の生き方」を知っていると、はっきり言いたかったのではないでしょうか。イエスので師は、イエス様と一緒に食べ、休み、神の国を宣べ伝え、イエス様が奪い取られれば悲しむ。それをありのままに実行しているまでだ。断食を否定もしないが、闇雲に行うのでもない。断食すべき時は私が決めるということです。

実際、今週の水曜日には、灰の水曜日が回ってきます。18歳から59歳の方は、大斎の義務があります。一食は十分に食べて、残りの二回は半分くらいに犠牲します。イエス様の御死去を偲び、聖金曜日と四旬節の開始を告げる灰の水曜日に大斎(断食)を行います。まさに、イエス様を通して与えられた断食の日と言えるでしょう。

私たちも、あらゆることで今日の対比を考えてみたらよいと思います。文字に振り回されて、縛られ、また人を縛ってきたのではないか。その人の心の中でのささげものに注意を払っているだろうか、ということです。

たとえば、社会的に「更年期」ということが注目されています。以前は誰も取り上げなかった「男性のケース」にも、光が当てられてきました。これまで理解されなかった部分ですから、かなりの誤解がまかり通ってきたのかも知れません。あの人は調子のいいときだけ教会に来て、普段は何にも教会のためにしてくれない。もしかしたら、行きたくても体が言うことを聞かないのかも知れません。安息日を聖としなさい。字面だけを追いかけ回して、「私は毎週欠かさず教会に行く。あの人はだいたい月に一回来ない、あの人は・・・」と完全に数字だけで計って裁いているときがあるかも知れません。日曜日を楽しみにしていたのに、頭が重く、体が言うことを聞かずに来ることができなかったということはあり得るのです。

断食するから私たちが正しくて、断食しない彼らはおかしい。彼らの質問に悪気がなければ叱られもしなかったでしょう。けれども、彼らはイエスの弟子たちを裁いていたのです。イエス様の弟子たちは、イエス様と行動を共にすることを勉強中の身だったのです。

これから四旬節へ向かっていきます。私たちも、断食を初めとして生活の中で自分にできる犠牲を捧げていくことでしょう。犠牲のための犠牲ではなくて、イエス様がすべての人のために命を捧げたことに少しでも自分を近づけたい、そんな気持ちを繰り返し繰り返し、自分の犠牲に織り込んでいくことができるように、今日のミサの中で照らしを願っていくことにいたしましょう。


次回は「四旬節第1主日」をお届けいたします。
(マルコ1:12-15)