主日の福音2003,2,23
年間第7主日(マルコ2:1-12)
どうせなら「満点」をねらおう


今日の話は試験のことから入りたいと思います。高校の入学試験を待っている3年生は、とても緊張していると思います。入学試験ではないですが、私の体験を少し話します。

みなさんは、百点と満点は、同じだと思いますか?私はあるときまで、同じだと思っていましたが、一つの経験から、同じではないと思うようになりました。「化学」という科目の試験の時でした。

初めての「化学」の試験だったので、私は一生懸命勉強して、試験を受けました。問題を見たとき、私は「これは全部分かる!やった!」と思ったんです。私の思ったとおり、問題は全部解くことができ、自信もありました。

何日かして、答案が返ってきました。答え合わせが終わって、先生がこう言いました。「おーい中田。君は百点だ。それから○○、君は満点だ」と言ったんです。?と思いまして、何か違うのかな?と思っていたら、先生がこう言いました。「中田君、君は答えの中で一箇所、人の名前を正確に書いてなかったね。でも、答えは間違っていなかった。○○君は、人の名前を正確に書いた。だから満点だ」と言ったんです。

たとえで少し説明しましょう。中田神父の名前を知っている人は書いてください。と言われたら、普通は、「中田輝次」と書いてくれます。でも、「なかだこうじ」でも「ナカダコウジ」でも、間違ってはいません。分かりますよね。これと同じように、私はある人の名前を書くという質問の答えを、それは外国人の名前でしたが、自信がなくて、短く書いたんです。

間違ってはいませんでした。けれども、満点をもらった友だちと同じではありませんでした。その時の経験から、「百点と満点は違う」と思うようになりました。ほかにも、「ほとんど同じ」「とても似ている」のような言葉も、「完全に同じ」ではないと思います。

今日の福音に入っていきましょう。初めに、律法学者と、イエス様のことを話します。律法学者は、神様のことをよく知っている人でした。こんな言葉を言っています。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」。これは正しいと思います。とても正確な言葉です。この律法学者は神様のことを「とてもよく知っていた」と思います。

イエス様。イエス様は、「神の子」でした。「神様のことをよく知っている」のは普通のこと、当たり前のことです。イエス様は神様だからです。それでは、律法学者と、イエス様は同じでしょうか?律法学者は百点をもらうことのできる答えを言いました。イエス様と律法学者は同じでしょうか?

私は、違うと思います。イエス様は「満点」です。完全な答えを知っていました。「神おひとりのほかに、罪を赦すことはできない」と知っていただけでなく、実際に罪を赦してくださいました。知っているだけではなく、実際に行うことができたのです。イエス様の答えは「百点」ではなく、「満点」「完全」だったのです。

今までの話から、一つのことを学びましょう。聖書をいつも熱心に読んでいる人は、「百点」です。きっと、イエス様の言葉や、たとえ話を、たくさん知っていると思います。けれども、忘れてはならないことがあります。「百点」は、「満点」とは違うと思います。聖書の中の話は、神様についての話、イエス様についての話です。だから、聖書を読み、学ぶために、いつも神様の導きが必要だと思います。「神様、導いてください」と祈りをしてから、聖書を読み、学ぶ人は「満点」です。

毎日祈りをしている人。朝の祈り、夕の祈り、食事のときなど。お祈りを忘れずにしている人は「百点」です。けれども、「満点」ではないと思います。なぜなら、人は「習慣」で祈りをすることもできるからです。祈りは神様に届けるものですから、神様が耳を澄まして聞いていることを思い出し、感謝の気持ちで祈る必要があります。「神様、あなたはいつも私の祈りを聞いています。私はあなたに感謝しています」と思って祈る人は、「満点」だと思います。

実はここまでの話の中で、病気をいやしてもらった人のことを話していませんでした。話さないのかな?と思っていましたか?私は、一番おいしいものは一番最後に食べる人です。だから、最後に残していました。

今日の話の中で一番大切な役割を持っているのは、病気の人だと思います。この人は、人々に抱えてもらって、イエス様のいる家の屋根をはがし、連れて行ってもらいました。そして、病気を治してもらいました。

この出来事の中には、もっと深い意味が入っています。それは、「この病人の態度は『満点』でした」ということです。なぜなら、律法学者は、「百点の答え」を知っていましたが、イエス様を信じませんでした。イエス様を悪く思いました。けれども、病人は、「神おひとりが、罪を赦すことができる。それはイエス様です」と知って、そしてイエス様を信じて、自分の病気をイエス様に委ねました。知っているだけなら「百点」でしたが、この病気の人はイエス様に自分を委ねたのです。だから、「満点」なのです。

私たちのことを考えてみましょう。私たちの生活の中にも「百点だけど、満点じゃない」ことがたくさんあると思います。子供が何か悪いことをしました。親は、許してあげることがよいことと知っています。知っていることは百点です。けれども、本当に許してあげないと、満点ではないと思います。

手伝ってほしい人を見つけました。手伝ってあげると喜ぶ。それは誰でも知っています。けれども、私は時計を見て、手伝いませんでした。これから先の予定を思い出して、手伝いませんでした。こんなこと、いっぱいあると思います。そして、もう少し勇気を持っていたら、私は「満点」と認めてもらえるのです。もう少し憐れみの心を持っていたら、「満点」なのです。

イエス様は、「百点」の律法学者と、「満点」の病気を治してもらった人と、どちらを喜んだでしょうか?もちろん、「満点」と認めてもらった病気の人でした。私たちにも同じことを期待しています。「百点」ではなく、「満点」をもらいたい。そんな望みを(点数が大事ではないのですから)持ち続けることができるように、今日のミサの中で祈ってまいりましょう。

次回は「年間第8主日」をお届けいたします。
(マルコ2:18-22)