主日の福音2003,2,16
年間第6主日(マルコ1:40-45)
イエスが深く憐れんだのだから今日の朗読から何かを拾う、それも一つだけ拾い上げるとすると、私はイエス様の次の様子を取り上げたいと思います。それは、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べられた」(41節参照)ということです。
イエス様が深い憐れみをお持ちになったということは、特別なことではないのですが、けれども良く考える必要があります。マルコはあえて、イエスが深く憐れまれたと書き残したのです。どういうことでしょうか。
どう考えても、イエス様が少しだけ憐れみをかけるということは考えられません。イエス様が憐れみをかけるのであれば、それは十分に、惜しげもなく憐れみをかけられるのではないでしょうか。
さらに、深く憐れまれることがイエス様の当然の姿なら、どうしてあえて書き表したのでしょうか?マルコは何かの狙いがあったのではないでしょうか。
そうです。イエス様が深く憐れまれるのは、マルコが書かなくとも当然のことなのです。あえてそう書き表したのは、むしろ私たちのため、私たちが、イエス様に倣って、「深く憐れむ」ということを学ぶためだったのです。
正直な話、私たちは人に対して深い憐れみの心を向けるのでしょうか?人によって深く憐れみを感じたり、あまり同情できなかったり、私たちの憐れみの心は天気のようにめまぐるしく変わり、上手に使い分けているのではないでしょうか。そんな、さじ加減をしながら憐れみをかける私たちに、「深く憐れむことを学びなさい」そんな意味を込めて、「イエスは深く憐れまれたよ。あなたはどうするのですか?」と問いかけているのではないでしょうか。
今年の黙想に、私は「エフェソの信徒への手紙」を選んで、黙想を進める道しるべにしようと考えました。二つの理由があって、一つは「エフェソの信徒への手紙」が、教会を愛することについて、夫婦の愛について、家族の愛について語っているということで選びました。もう一つは、普段はあそこここと細切れに読んでいた聖書ですから、この機会に一つの書物を通して読んでみましょうという、素直な気持ちからでした。
この、「エフェソの信徒への手紙」の中にも、ちょうど私の話していることに重なる言葉が書かれています。次のような言葉です。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(3章18-19)。
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように」。「どれほどであるか」。この言葉は、今日の「イエスが深く憐れまれた」をあらためて考えさせます。イエス様はどれほど深く憐れまれたことでしょう?本当のところは、誰も、どんな人間も、はかり知ることはできないのです。
それほど深く憐れまれた。私たちは何かを考えるべきです。イエス様が困った人を前にして深く深く憐れまれた。私たちは何をしているのだろうか?人を許すにあたって、人に施すにあたって、時間を差しだすにあたって、どうして私たちが後込みして良いでしょうか?
イエス様の憐れみがどれほど深いのか、私たちはどのようにして理解できるのでしょうか。どのようにして知ることができるのでしょうか。それは、私たちもイエス様と同じように、深く憐れむこと、これに尽きます。けむたいと思っている人に、深く憐れみをかけること。イエス様に倣うことでしか、私たちはイエス様のことを理解できないのです。イエス様の模範に倣う以外に、イエス様を信じ、愛していますと証明する手だてはないのです。
最後に、日曜日のお昼から、カトリック者であり、作家である曾野綾子さんが講演のためにおいでくださっています。ぜひ、同じ信仰を持つものとして、講演会に参加なさってください。物事の広さ、長さ、高さ、深さ。こうしたことには曾野綾子先生のような活動をされるお方が、いちばん敏感なのではないかと思います。
先生のお話を通して、キリストが人に示してくださった愛の深さを感じ取るためのすばらしい一日が恵まれるように、ミサの中でお祈りしたいと思います。