主日の福音2003,2,09
年間第5主日(マルコ1:29-39)
イエス様の一日に見習う

今日の福音は、イエス様の三つの働きが収められた朗読といってよいでしょうか。それも、一日の中で見られた働きです。私たちの毎日の生活を振り返るきっかけをつかみたいと思います。

三つの働きをきちんと取り出しておきましょう。一つ目は、シモンのしゅうとめの熱を取り除いてくださったこと、二つ目は、町中から病気の人をイエスのもとに連れてきたこと、三つ目は、朝早くに祈ったことです。

三つの働き、それぞれをもう少し観察しましょう。シモンのしゅうとめの熱を取り除くさまは、誰にでもできることではありませんが、その中には誰にでも通じる点があります。それは、シモンのしゅうとめの所に行くということです。イエス様は彼女のそばに行きました(31節参照)。

病気の人のそばへ行く。これはイエス様でなくてもできる働きです。そこへ、さらに知恵を絞って、イエス様をたずさえて病人のもとへ行くなら、私たちはイエス様の姿に倣うのではないでしょうか。

もちろん、イエス様をたずさえてと言っても、何をどうすればよいのか思い付かない人もいるでしょう。それは、たとえば日曜日のお説教を心に留めて、日曜日に教会に通えない人のところへ行く。そういうことでも良いと思います。聖書と典礼を手に持って、病人を訪ね、その週の日曜日の聖書を読んで、いっしょに主の祈りを唱える。そんなことを通しても結構です。熱を取り除くことはできなくても、病人の重荷を少し軽くすることはできるかも知れません。

二つ目。イエス様はいろいろな病気をかかえている人を戸口に集めました。その日は、シモンのしゅうとめの家にいたのでしょう。今度はイエス様は誰かのもとへ行くのではなくて、人々を招きました。

このあと、病気をいやしてくださるのですが、当然私たちにはそのような特別な力は授かっていませんので、同じことはできないでしょう。けれども、いろんな人を招いて、いっしょに食事をして、招いた人をもてなすことはできるのではないでしょうか。そして招待した人と、たとえばいっしょに夕の祈りを唱えるなら、悪霊にものを言うことを許さなかったという、あの働きを私たちも見習うのです。夕の祈りを唱えるひとときは、悪霊が入り込む隙などないからです。

朝起きて、イエス様は祈られました。これこそ、イエス様とまったく同じ働きができるまたとない機会です。祈りの深さや、祈りがもたらす力は違っても、朝、父なる神に祈ることでは、イエス様と何ら変わらないのです。

マルコは、今日の朗読で、イエス様の一日を紹介してくださいました。それはまた、私たちの一日を振り返って、ここから何かを学びなさいと言う招きではないでしょうか。私たちも、まったく変わらない一日を与えていただきました。イエス様がご自身を誰かに届けるために出かけ、人を招いてご自身を分け与え、また父なる神に祈ったように、私たちも同じように一日を過ごすことは可能なのです。

イエス様の声を誰かにとどけに行く、誰かを招いてイエス様のことを語らう、神に心をあげて祈る。これまでと変わりない生活の中に、この三つをうまくとけ込ませるなら、私たちは一日一日イエス様に倣うものとなるのです。

まずは、私の生活にイエス様の一日を取り入れましょう。そして、取り入れて喜びが湧いてきたら、「近くのほかの町や村へ」行きましょう。私たちもまた、弟子たちと同じように宣教に招かれているのですから。