主日の福音2003,2,2
主の奉献(ルカ2:22-40
少なくとも「等価交換」を

昨年末のことをしっかり覚えている方は思い出すかも知れません。今日の朗読は、クリスマス直後の日曜日、聖家族をお祝いする中で朗読された箇所とまったく同じものです。前回はこの箇所で家族について考えたわけですが、今回は「いけにえ」ということについてしばらく考えてみたいと思います。

みなさんの耳には、「いけにえ」と聞いたらぎょっとする人もいるかも知れません。生き物を神様に供えるというのは、ちょっと日本人にはしっくりこないかも知れません。穀物の供え物ならすんなり受け入れるでしょうが、ここはちょっとの間辛抱してほしいと思います。

さて、イエス様の住んでいた地方では、それよりはるか昔から、動物のささげものを神様に供える習慣がありました。今日のように、生まれた子のための儀式の場合は、本当ならば家族はその子を手放さないといけないのですが、それを動物(羊など)で置き換えてもらうという儀式でした。わが子を手放す変わりに、動物を手放し、主にささげたのです。

動物は、いけにえにされ、焼き尽くされました。それは、完全に手放すことを表す仕草です。ささげるとは、自分のもとに何も残さず、完全に手放すことが含まれています。ヨセフとマリアは、イエス様を主にささげるために神殿においでになりましたが、文字通りに、完全に手放す覚悟で神殿においでになったのでしょうか。

結果として、そうなったということは言えると思います。イエス様は十字架にかかってご自分のいのちをおささげになりました。神殿で両親の手によってささげられたご自分の生涯を、文字通りに完全にささげ尽くしました。自分の手には何も残さず、完全に父なる神にお返しになったのです。

シメオンはこのことを、前もってマリア様に預言なさったのだと思います。「この子はまた、反対を受けるしるしとして定められています。−−あなた自身も剣で心を刺し貫かれます−−」(34-35節参照)。今日は、鳩をもって置き換えることができたけれども、今日のできごとはあとでそのまま繰り返されますよ、本当にわが子イエス様をささげなければならなくなって、引き裂かれるような思いをしますよ、覚悟はできていますか?そんな預言だったわけです。

またいけにえは、置き換えるものになるのですから、劣ったもので置き換えるわけにはいきません。というわけで、普通には羊や山羊で置き換えることになっていました。その家が貧しければ、鳩で置き換えることもできるとなっていました。この点も考えてみましょう。

よくよく考えると、わが子を手放すかわりとしてなにがしかの動物というのですが、どんな動物でも人間と置き換わることはできないのではないでしょうか。ましてや、イエス様の身代わりになる動物など、どこを探しても見つかるはずがありません。

おそらく、ここには一つのことが隠されているのだと思います。ヨセフ様とマリア様から見れば、わが子を神殿にささげ、実際にわが子を手放す変わりにいけにえをささげたという儀式でしたが、神殿にどとまっておられる父なる神の側からすると、人間が人間の救いのために何をささげても不足だけれども、神の子がささげられることで、人間は置き換えてもらった、救われるものとなった。そのことを表す儀式だったのではないでしょうか。

そしてイエス様が人間の身代わりにささげられるという計画は、最後は十字架の上で完成したのです。人間の救いのために、動物で置き換えるのではなく、のちに御子を通して十字架の上で置き換えてくださった神の計らいが、今日の神殿奉献の大切な意味なのではないでしょうか?

では、わたしたちの日々の生活にあてはめてみましょう。私たちは、少なくとも一週間のうち一日、日曜日のこの時間を神様におささげするために教会に来ています。神様にこの時間をささげに来た、神様にこの時間祈りをささげに来たのですから、今日のこの時間は、私たちの一週間に見合うだけの価値が必要です。

劣ったものをささげて、これまでの一週間、これからの一週間を手に入れようと考えるべきではないと思います。本当に、そのような気持ちでこのひとときを過ごし、ささげているでしょうか?とっても考えさせられると思います。

先日中学生に、あなたの生活の中でお祈りする時間を何時何分からと書いてごらんなさいという課題を出しました。朝起きてから、学校に行くために家を出るまでに、どの時間だったら取り分けることができるのか?と問うたわけです。

まあ見事なもので、ほとんどが苦し紛れに書いておりました。朝7時に起きて8時に学校に行くから、ご飯の時間と顔洗って着替えて準備して、あー神父様、祈りの時間なんてないよ?ほとんどがそんな感じでした。それでも無理にでも時間を書いてみなさい。そうでもしないとあなたが朝の祈りは朝に唱えますと知っていても、知っているだけでは意味がないんだ、それが分かってほしかったわけです。

「一日24時間、もし時間があれば、お祈りもしてみます」みなさんはそう考えますか?余り物の時間しか、神様にささげられない、というのでしょうか?劣ったもので神様に今日一日と交換してもらうのではなく、高価な時間を取り分けて、今日一日と置き換えてもらう、今週一週間と置き換えてもらう。そんな気持ちで神様に向かうことができるように、恵みを願っていきましょう。