主日の福音2003,1,26
年間第3主日(マルコ1:14-20)
すべてを捨てた人はイエス様の自由を得る

今日の福音で、イエス様は漁師に声をかけて、弟子にしました。シモンとアンデレという兄弟、ヤコブとヨハネという兄弟です。どちらも、同じ方法で弟子になりました。イエス様が彼らを見つけ、イエス様が声をかけ、彼らは何かを感じて、舟や網を捨てて、従ったのです。

イエス様が声をかけただけで、どうして彼らは舟を捨て、網を捨ててついていったのでしょうか。舟や網は、生活するための大切な品物です。お金持ちになることはできませんが、食べることはできます。普通に満足している人は、もっと良いものを見つけないと、今の生活を捨てません。イエス様は声をかけただけです。どうして今の生活を捨てることができたのでしょうか?

ここまで話して、みなさんは私が答えを言ってくれることを待っていると思います。けれども、なぜ漁師たちが舟を捨てて、網を捨ててイエス様について行くことができたのか、説明するのは難しいのです。けれども、彼らが今の生活よりもイエス様を選んで、今の生活を捨てたことは事実です。

正直に話したいと思います。説明するのは難しいです。けれども、私は証明することはできます。説明することはできなくても、自分が経験したことで、証明することはできます。イエス様が声をかけると、人間は、どんなに大切なものでも、イエス様のためにそれを捨てることができる、ということです。一番大切と思っているものでも、それよりもっと神様が大切だと理解した人は、今まで一番大切だと思っていたものでも、捨てることができる。

これから、私の体験を紹介したいと思います。今から二十年も前の話です。私は中学生で、神学校に行っていました。夏休みの終わり、8月31日、五島から神学校に帰る日のことです。前の日に私は荷物を準備し、明日いつものように神学校に帰る予定でした。

ところが前の晩、8月30日の夜中に、弟がひどい熱を出して、病院に運ばれていきました。母もいっしょに病院に行きました。その時母は、「自分で何とか帰りなさい」と言って病院に行ったのです。

けれども困ったことになりました。私はお金を一円ももっていなかったのです。バス代も、船賃もありませんでした。悪いことは続きます。バス停に行ってみると、もうバスは出発していました。港に着くためには、バスに2時間以上乗らなければなりませんでした。お金はもっていないので、もうほかに港に行く方法はありませんでした。

悲しくなって、バス停から帰っているときに、知らないおじさんが声をかけてきました。「君は、中田さんの家の神学生だね」「はい」「神学校に今日帰るの?」「はい、けれども、行けなくなりました」。私は前の日からのことを話して、もうバスもいないし、帰ることが出来なくなったことを話しました。泣きたい気持ちでした。

すると、そのおじさんはポケットからお金を出して、私に握らせてくれました。見ると一万円でした。二十年前の一万円です。おじさんは私に、「タクシーに乗って、すぐに港に行きなさい」と言ってくれました。

私はお礼を言わなければいけないので、「おじさん、名前を教えてください」と言いました。するとそのおじさんは、「おじさんはおじさんたい。子どもは心配せんでよか。はやく行かんね」と言って、帰ってしまったのです。

今でも、そのおじさんの名前は分かりません。元気なのかどうかも分かりません。けれども、そのおじさんは神学生だった私に、大金をくれたのです。二十年前の一万円を、小さな神学生のために捨ててくれたのです。

おじさんは、信仰のことは言いませんでした。けれどもおじさんは、イエス様と同じことをしたと思います。イエス様が漁師を見つけて、声をかけて、弟子にしたように、あのおじさんは私を見つけて、「わたしについて来なさい」「わたしの言うとおりにしなさい」と言って、私をイエス様のところに導いてくれたと思います。

そのおじさんのことを、私は決して忘れません。おじさんは、私がイエス様の弟子になって、イエス様に固く結ばれる手伝いをしてくれたのです。私は、あのおじさんの心の中に、イエス様が声をかけてくれたのだと思っています。「わたしについて来なさいと、あの中学生に言いなさい」と、イエス様はあのおじさんの心に語りかけたのだと思います。

イエス様の声が、舟や網よりも尊いことを説明するのは大変難しいことです。けれども、証拠はあります。私が体験したことは、確かな証拠だと思います。おじさんが大金を捨てるときに、私はおじさんに何も返すものを持っていませんでした。一万円よりも尊いものを、私は持っていなかったのです。けれども、私がイエス様のために長崎で勉強している、それだけで、大金を捨ててくれたのです。

イエス様は今でも、私たちに声をかけて、「わたしについて来なさい」と言っていると思います。イエス様の不思議な導きは、今でも続いています。いのちは何よりも大切です。ですが、神様のために、いのちを捨てる人がいます。神様の招きが何よりも大切だと感じた人は、今までいちばん大事だと思っていたものでも、捨てることができるのです。そしてそれはイエス様の時代だけでなくて、今でも続いているのです。

私たちには、捨てることのできないものが、きっとあると思います。それでも、この世のどんなものにも縛られてはいけないのだと思います。「わたしに従いたい人は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰ったイエス様の声を、私の心に語りかけるイエス様の声を、今週一週間繰り返し繰り返し聞いてみることにいたしましょう。