主日の福音2003,1,19
年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
主よ、どこにお住まいですかもう年間の主日に入ってしまいました。ついこの前まで馬小屋を飾っていたような気がしますが、今日の福音は洗礼者ヨハネの弟子だった二人が、イエス様のもとにとどまり、一夜をともに過ごす様子が紹介されました。
イエス様のところに泊まったという二人は、アンデレと、おそらくヨハネでしょう。ヨハネ福音書が今日読まれていますが、自分の名前をあえて言わなかったのだと思います。この二人は、イエス様から教えを請うつもりで「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたに違いありません。
というのは、すでに二人は洗礼者ヨハネと一緒に暮らし、一緒に暮らす中で洗礼者ヨハネから教えを受けて育ってきたからです。どこかの塾に通学して教えてもらうようなやり方ではなくて、夜昼寝起きして、同じ釜の飯を食った仲となるまで、心を通い合わせる、それがいちばん確かな道だと考えたのです。
私たちは、教会に夜昼寝起きしてということは考えられないのかも知れませんが、今日の第1朗読を読むと、サムエルは主の神殿で寝起きしていたとあります。ですから神殿を離れずに寝起きすることは、古くから一般に見られたのだと思います。イエス様を最初に抱きかかえた女預言者アンナも、神殿を離れずに暮らしていました。
このように考えてみると、今日の福音の中心は、「神殿に寝起きして教えられる」ということのようです。文字通りに神殿に寝起きするのでなくても、そこで言おうとしていることを汲み取って、自分の生活にあてはめていくことが求められているわけです。
「夜も昼も」は無理かも知れませんが、定期的に教会に足を運んで、神様と向き合うことはできます。日曜日、またその替わりの土曜日の晩と、太田尾教会か間瀬教会のどちらかでミサが行われていますので、大島崎戸に住むみなさんは、本当に恵まれていると思います。
また、互いに祈り合うために教会に来る場合があります。身内に不幸があったとき、またその地域でお葬式があったときなど、曜日に関わりなく、神の前に自分を置きます。もちろん喜ばしい結婚式もまた、教会に結ばれて暮らす良いきっかけになるでしょう。
ここまでは、見える形で神と向き合うことを考えましたが、イエス様がとどまるところ、もうすでにそこが神の神殿なのだと思います。ヨハネとアンデレは、イエス様のおられる家に泊まりました。家に泊まっただけではなくて、イエス様と固く結ばれた時間をもったのです。慎ましい家だったかも知れません。けれども、イエス様がおられる場所は、いつでも神の神殿なのではないでしょうか。
そこでもう一つ考えたのは、私たちの心の中にイエス様をお迎えするなら、私たちは神の神殿で夜昼寝起きすることができるのではないでしょうか。イエス様をお迎えするなら、そこはもう神の神殿なのです。私たちが夜昼祈りを唱え、たとえ短い祈りであっても、自分の心にイエス様と向き合うひとときが持てるなら、私は夜昼神殿に寝起きしているのではないでしょうか。
ところで私には一つ心配があります。お祈りしてみようかなあという気持ちはあるけれども、住まいが狭いのでとてもお祈りする雰囲気になれないとか、その他似たような理由で、難しいなあと感じている人もいるのではないでしょうか。
家庭祭壇を構えている家は、家庭祭壇が祈りの場所、祈りの雰囲気を作り出してくれるかも知れませんが、わが家にはそのようなものはありませんと仰る方も多いことでしょう。家庭祭壇も、同じ部屋にテレビがあって、テレビがつけっぱなしであれば、似たようなものです。こういうときに、何か知恵はないものでしょうか。
部屋が狭くてお祈りの雰囲気を作れない人に、ちょっとした工夫を紹介します。これは、福岡の学生時代、一部屋で何年も過ごしていたときの経験です。一つの部屋に机があり、ベッドがあり、洗面所がある生活でしたので、狭い中で祈る雰囲気を作るには工夫が必要でした。そこで私が教えてもらったことは、お祈りのために椅子をもう一つ用意するということでした。
「この椅子は、お祈りのときに座る椅子。ほかのときには使わない」。そう決めておけば、案外お祈りの雰囲気を守ることができます。部屋を変えなくても、お祈りのために広いスペースがなくても、自分が座る場所を変えれば、座る椅子を変えるだけで、雰囲気は変わるものです。お部屋が足りないという家庭でも、お役に立てる方法ではないでしょうか。
教会に欠かさず通い、教会に指定席がある人もいるかも知れません。けれども、それだけが、「夜昼神殿に寝起きする」ことではないと考えます。私の心の中にある神殿で、イエス様に夜昼祈りを捧げることは、これに劣らずすばらしい生活ではないでしょうか。
日に何度か、祈りを捧げて生活する人には、神は旧約のサムエルにそうされたように、心に語りかけてくださいます。私の心にとどまってくださり、私を神の神殿としてくださる神から離れることなく生きていけるように、今日ミサの中で願うことにいたしましょう。