主日の福音2003,1,12
主の洗礼(マルコ1:7-11)
イエスの洗礼は、新しい時代を刻む

今日は主の洗礼を記念しています。今年一年は、マルコ福音書が基本になって日曜日の福音朗読が回っていきますので、マルコが書き残した洗礼の場面が朗読されました。読んで気付かれた方もおられると思うのですが、マルコはイエス様が洗礼を受けるときの詳しいいきさつは何も書きませんでした。そこで、マタイ福音書の同じ箇所から、少し補ってみたいと思います。

マタイ福音書の中で、洗礼者ヨハネはイエス様を思いとどまらせようとしました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3章14節)。それに答えてイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3章15節)と仰います。

私は、このようなやりとりを読むときに、あー、イエス様は私たちに模範をお示しになったのだと、そのことだけ考えて、それ以上考えずに毎度毎度お説教を考えてきたように思います。もちろん私たちへの模範と受けとめて構わないのですが、けれども読み方を「これ」と決めてしまうと、それ以上のものは浮かんでこないものです。あー、ここの意味はこれしかないのだと決めてしまうなら、そこで私たちの黙想は止まってしまいます。もっと突き詰めると、何か見えてこないか、そんな気持ちは必要だと思います。

今年、そんな思いでイエス様の洗礼を思い巡らしていると、マタイ福音書を補って考えなくても、十分に新しいものを黙想できることに気付きました。もしかしたら、マルコはそこまで考えて、できごとを短く書き残したのかも知れません。「この短い書き込みから、その先にあるものを読みとりなさい」そんなつもりだったのでしょうか。

私はこんなことを考えてみたわけです。イエス様の洗礼には、ご自分のこれからの活動のすべてがぎゅっと込められていた、凝縮されていた、ということです。イエス様はこれから荒れ野に退き、その後宣教活動に移られます。そして最後には、十字架にかかってすべてを成し遂げられました。荒れ野での誘惑も、神の国を告げ知らせる宣教活動も、十字架にかかったあの最後の場面も、よく考えればこの洗礼の場面の向こうに透けて見える。そう思ったわけです。

荒れ野での誘惑。これは、人となったイエス様が、人間の欲にうち勝つ時間です。人間の欲に死ぬことで、イエス様は誘惑にうち勝ちましたが、洗礼は水の中に沈められることですから、この時すでに、イエス様は人間の欲に死ぬことを決意して、水の中に入られた。目に見える儀式の向こうに、もっと大きなものを見ていたのだと思います。

また、神の国を告げ知らせる宣教活動は、遠い宇宙から、声だけで知らせるものではありません。人間のまっただ中にいて、それは人々から嫌われていた罪人の中にも、また、宗教上汚れていると言われた人々、社会からのけ者にされていた人々の中にも飛び込んで知らせてくださいました。そのようなことをこれから行うのだと思い描きながら、水の中に飛び込んだのではないでしょうか。

そして、十字架上の死。イエス様はすべての人の罪と無理解を身に負って、十字架の上で父なる神に人間の赦しを願ったのでした。人は水の中に沈められたらひとたまりもありません。イエス様は水の中に沈められながら、のちに十字架の上で死ぬことまでも見越しておられたのではないでしょうか。

こうしてみると、本当に短い洗礼の記録でありながら、たくさんのことが込められていただろう、そんなことを黙想させてくれるのです。ヨルダン川、そんなに川幅もない川ですが、巡礼先で見かけた洗礼式の様子が重なって思い出されます。あの場所で川に全身沈められた人たちは、人間の強欲に死に、神の子となったことを社会の中に飛び込んで知らせ、最後には一生を終える、その時まで今日の洗礼の日を忘れないと、どこまで思っていたことでしょうか。

もしその気がありましたら、3月11日からの聖地巡礼の案内を用意しておりますので、一度巡礼に出かけてみてください。私が百万言費やすよりも、みなさんが聖地に出かけて、ヨルダン川を見てくることのほうがよほど勉強になると思います。いつ行っても、きっとヨルダン川の水の中に体を沈めて儀式を行っている人々がいると思いますので、目の前の人々のその先に、イエス様の洗礼を思い浮かべることもできると思います。

これは余談になりますが、3月11日から約10日間の巡礼に、思いきって五島の両親に行ってくるよう勧めております。今回みなさんの中で巡礼に行く方がおられるなら、私の両親とゆっくりお話もできると思います。これはついでの話でした。

もう一点、できごとの向こうにあるものを見つけました。「天が裂けた」という件(くだり)です。私たちが空を見る限り、空が裂けたりするはずはないと思われるかも知れません。大昔のものの書き方だろうと片付ければ、そう言えなくもないですが、「天が裂けた」という言い方は、何か別のことを言おうとしているのだと思います。

こういうことです。「天」とは、人間の考えるいちばん遠くにあるものです。人間が考えつくいちばん外、いちばん遠くの世界です。それが「裂けた」というのですから、今その時に、人間の考えの先におられる神が、働いてくださったと言いたいのではないでしょうか。

この世界はこうなっているのだ、人間の社会とはこういうものだ。私たちが考えていた常識をうち破って、神様が新しい時代を築いてくださったということです。イエス様の洗礼のできごとは、人間が考える社会の仕組み、変えようとしても変わらないもの、それらすべてを引き裂いて、人となった神が新しい生き方を示してくださる。そんな時代が来たのだと、今日私たちに呼びかけているのだと思います。それは喜びの知らせ、救いの訪れ、「福音」そのものなのです。

イエス様が洗礼をお受けになることで、すべてが新しくなっていきます。人間的な誘惑に日々死ぬこと。社会の真ん中で、キリスト者として生きるように招かれたこと。自分のために死ぬのではなくて、救いを用意してくださったイエス様のために最後は死ぬということ。私たちが日頃出会うできごとが、イエス様によって新しい意味を与えられたのです。

これから始まるイエス様の生涯を、一つひとつ学びながら今年一年を歩いていきましょう。日々の生活に、今までとは違う確かな意味づけをいただくことができるように、ミサの中で祈ってまいりましょう。