主日の福音2003,1,5
主の公現(マタイ2:1-12)
三つのささげものを用意しよう

今日私たちは、主の公現をお祝いしています。主の公現は、イエス様が占星術の学者たちの礼拝を受けられたこと、公の前に現れたことを記念するものですから、神の子イエス・キリストが一般参賀をお受けになったということになるでしょうか。

福音書は、いつも占星術の学者たちの記事を取り上げます。ですから、私はどちらかというと、お祝い日の名前は「三人の博士の来訪」みたいな名前の付け方がいいのではないかなあと思っています。あくまで個人的にですが。

学者たちは黄金・乳香・没薬を贈り物としてささげたとありますから、一人が一つの贈り物を差し上げたとすると、学者は三人いたということになります。三つの贈り物は、神への贈り物・王への贈り物・死すべき人となられた方への贈り物という意味を結びつけたりしますね。これは美しい表現だと思います。

私は、占星術の学者たちの毅然とした態度に感心いたします。断言はできませんが、学者たちはヘロデ王のもとに赴いて、道を尋ねています。現世の王とは言え、恐れられているヘロデ王に道だけ尋ねて、とっととイエス様のもとへ行ってしまうというのは、ずいぶん勇気があるなあと思うわけです。

もしかしたら、学者たちは、ヘロデ王など眼中になかったのかも知れません。本当に偉大な学者たちです。この世の権力者、人民に権力を振るう王には目もくれず、今は幼子であっても、まことの王、王の中の王であるイエス様を、ひたすら探し求める姿は、立派としか言いようがありません。

学者たちが急ぎ訪ね求めた幼子、イエス・キリストを、今日私たちも拝みにまいりましょう。彼らは黄金・乳香・没薬をたずさえてきました。私たちも彼らに倣って、何かを意識してひざまずくことにいたしましょう。

彼らは黄金をささげました。神であられるイエス様にささげるためです。ですがイエス様は、後に次のように仰います。「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」(マタイ23:17参照)。そうです、イエス様は黄金と清める神殿なのです。ヘロデ王を黄金とたとえるならば、ヘロデ王に意味を与えるのは神の子イエス・キリストなのでした。

乳香。学者たちは、地上の王としても、最高の香料をささげます。ヘロデ王は権力を振るい、人々を震え上がらせて従わせましたが、イエス様は柔和と謙遜で人々を導きます。北風と太陽の物語のように、イエス様は私たちの心を静かに開き、平和をもたらすために王としてこられたのでした。学者たちも、イエス様のなさる導きに賛成して、乳香をささげます。

没薬。死すべき人となられたイエス様へのささげものです。人は誰も、自分のために死んでいきます。自分が信じることのために命を賭けます。ですがイエス様は、自分のためには何も残さず、私たちのためにすべてを投げ出されました。死ぬほどに私たちを愛してくださったイエス様に、最高の贈り物をささげます。

私たちも、イエス様の前にひざまずくとき、幼子の前で祈るとき、たとえば何か三つの讃美を考えて訪ねてみてはいかがでしょうか。神様として、この世の誰よりもよく導いてくださる方として、与え尽くす愛に感謝して祈りをささげるとか、何か三つくらいのことを思い描きながらイエス様に近づく。そうすると、私たちはさらに敬虔に馬小屋に近づくことができるのではないでしょうか。

三つ思い浮かばない方も、どうぞ馬小屋に近づいて欲しいと思います。あなたが思い浮かばなくても、じっと馬小屋にとどまるなら、イエス様が三つの姿を教えてくださるでしょう。不思議な漁を経験させてくださった、五千人もの人にパンを与えてくださった、やもめの一人息子を生き返らせた、心の貧しい人々は幸いであると教えてくださった。三つ思い浮かぶまでに、そう時間はいらないのではないかと思います。

イエス様は、今日学者たちの礼拝を受けて、すべての人の王として現れてくださいました。私たちも、馬小屋のイエス様に近づき、それぞれが思い浮かべた、三つの讃美をささげましょう。そして、今年一年も、私たちを力強く導いてくださいと願うことにいたしましょう。