主日の福音2003,12,31/2003,1,1
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
母の心配りと懐の深さ

みなさんあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。過ぎた一年は私にとって叙階十年目の年でした。今年は十一年目に入り、「一から」ではありますが、「十」というとりあえずの土台に立って、目標を定めたいと思っております。みなさまは、どのような新年の抱負をお持ちでしょうか。

教会は世の中の一年のはじめに、「神の母聖マリア」をお祝いして教会活動をスタートさせます。福音書は、羊飼いの訪問を受けた後のマリア様を取り上げて、一年のはじめをここから黙想するようにと促します。

そのマリア様は、羊飼いの訪問を受けて、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。もちろん私が今日ここでマリア様の思いをすべて解き明かすという意味ではありません。ここから感じたことをみなさんと分かち合いたいと思います。

ルカは、ここで何を伝えたかったのでしょうか。私はこう考えました。ルカは、マリア様が心に納めたものがあまりに大きかったので、それを一つの謎として書き残すために、「出来事をすべて心に納めた」と書いたのではないでしょうか。

こんなたとえが当てはまるかも知れません。私たちは一年一年歳を取り、体はどこかで衰えるとしても、心は毎年何かを学び続けて成長します。成長しますが、「歳を取るとはどういうことか」の答えには、きっと何年経ってもたどり着かないのだと思います。

もしも今年、「歳を取るとは、こういうことだ」と何かを悟ったとしても、また次の年になれば、新しいことを学ぶかも知れません。マリア様が心に納めたというその「すべてのこと」も同じではないでしょうか。その答えは、私たちが生涯をかけて、一つずつ味わっていくべきものなのだと思います。

これが、「出来事をすべて心に納めた」という様子から、新年にあたって私が学んだことです。繰り返しますが、それは「すべてのうちの一つ」を学んだにすぎません。私自身も、マリア様が目にし、耳で聞いた出来事すべてを、生涯をかけて探していきたいと思っています。

つぎに、「マリアは思い巡らした」とあります。先に考えた「心に納める」とはまた違った働きです。「心に納める」ことは、出来事をありのままにとどめておくことですが、「思い巡らす」とは、ありのままの出来事にどんな意味があるのか、その隠された意味までも探し求める長い長い旅だからです。

マリア様は、出来事の意味を思い巡らしました。天使のお告げを受けた神の子は、家畜小屋で生まれた。自分たちは宿に泊まれなかった。野宿する身分である羊飼いたちが訪ねてきた。これらに隠された神様の計り知れないご計画を、マリアは静かに探し求めたのです。

すぐに答えは見つからないかも知れません。神様は時間をかけて教えてくださるのかも知れません。そういう意味では、マリア様はわが子であるイエス様を腕に抱いたときから、神様のご計画を思い巡らす長い長い旅に出発したとも言えます。出発であれば、マリア様とともに私たちも出発点に立っているわけです。与えられた朗読箇所を1月1日に祝い、黙想することには意味があるのではないでしょうか。

神の母となったマリア様は、今日新年を迎えた私たちに、二つのことを示してくださいました。出来事をすべて心に納めること。出来事には何かしら神様のご計画があり、それは一つとして無駄なものはなく、すべて心に納めるに値するということでした。

もう一つは、神様のご計画を秘めたこれら出来事の意味を、じっくりと思い巡らしなさいということでした。今日起こったことには、どのような意味があるのだろうか。それはすぐに知らされるのか、時間をかけて解き明かしていただけるのか、生活の中で思い巡らすということでした。

一年のはじめに、マリア様は神様と向き合って生きるお手本を示してくださいました。私の暮らしに、マリアのように生きる時間、マリアに倣うひとときを多く持つことができるように、ミサの中で願っていくことにいたしましょう。