主日の福音2002.12.24
聖家族(ルカ2:22-40)
シメオンは神殿の境内で幼子を腕に抱いた

今日は聖家族をお祝いしています。朗読は幼子の奉献を取り上げていますので、幼子を腕に抱いた人々に目を留めて、今日の福音を味わっていくことにいたしましょう。
幼子イエス様は、律法の定めどおり両親に導かれて神殿に連れられてきました。それは、両親を主にして考えれば、わが子を神殿に捧げに行ったということになりますが、イエス様を主に考えると、神殿の主である父なる神が、わが子を神殿に導いたということでしょう。むしろ後者のほうが、意味深いことなのかもしれません。
父なる神に招かれて神殿においでになった。そう考えるとき、神殿の境内ではすでに三位一体の神様の働きがあると思います。父なる神が、聖霊に導かれて来るイエス様を迎えてくださり、そこに深い交わりがもたれます。
そう考えると、神殿で紹介されている聖家族とは、二つの姿が重なっていることになります。見える形ではヨセフ様とマリア様と御子イエス様ですが、神殿にはもう一つ三位一体の聖なる家族の姿があったわけです。
これは私のイメージですが、両親は幼子を連れてとあるわけですが、もちろん手を引いておいでになったのではなくて、マリア様が幼子を腕に抱いておいでになったのだと思います。そうすると、家族の分かりやすいひとつのかたちは、幼子を腕に抱きかかえ、受け入れている姿なのでしょう。
幼子を抱く場面が、今日の朗読の中でほかにも登場します。シメオンです。彼は神殿を離れずに祈りを捧げていた人でしたが、神殿の中で、幼子イエス様を腕に抱きかかえました。この、抱きかかえるというしぐさで、シメオンにもイエス様を自分自身の家族としてお招きする栄誉にあずかったのではないでしょうか。
アンナについては、両親に近づいてきたとだけ記しているのですが、おそらくみどり児を抱きかかえたことでしょう。イエス様を腕に抱くしぐさ、それも神殿の中で抱くということが、見えない聖なる家族の絆を後ろ盾にした、新しい家族の模範として示されているのではないでしょうか。
これは、私たちに示された一つの模範だと思います。家族が、深い絆に結ばれて生きるために、あるべき姿を示してくださった。つまり、私たちは聖家族にならって、三位一体の神の交わりのうちに、親子が互いに信頼を寄せ合って、生きることを願っているのだと思います。見えない支えとしては三位一体の神の支えをいただきながら、生活の中に幼子イエス様を受け入れ、抱きながら生きていく。それが、家族のあるべき姿なのです。
シメオンは、幼子イエス様を腕に抱き、「今こそ僕を安らかに去らせてください」と言っています。家族のあるべき姿、最高の姿を手に入れたので、もう自分は満足だ、これ以上何も求めるものはないということでしょう。
最近の話をひとつ紹介しておきます。金曜日に、中学生とクリスマス会を開きました。その中で私が注文したのは、どれだけ楽しい会を計画しても良いから、最初に教会の馬小屋の前で、キャンドルサービスをしようということでした。
電気を消し、馬小屋の前に置いたローソクから一人ひとりがローソクを分けてもらいます。その中で、中学生ですから、私の考えていることをそっくりそのまま伝えました。
「ローソクの光は、イエス様のしるしです。ひとつの光からそれぞれともしびを分けてもらったのは、イエス様を一人ひとり受け取って、心に納めるという意味です。イエス様は私たちの救いのために、私たちを死ぬほど愛しておられたので、命を捧げる運命を背負っておいでになりました。その深い愛を私たち一人ひとりは分けてもらいました」
「私たちも、受け取った光のような生き方を見つけましょう。困っている人に、自分のことを横に置いてお世話してあげる。勉強についていけない友だちがいたら、自分が少し遅くなっても見てあげる。そんな生き方ができたら、イエス様の光を分けてもらった人の生き方だと思います。一人ひとり、よく考えて、自分のまわりでイエス様の生き方を見習っていく方法を探してみましょう」。
だいたいこんな話だったでしょうか。中学生の一人ひとりの心にイエス様の生き方を納める気持ちが育つなら、彼らは今の時代にあってシメオンや、アンナであり続けるのだと思います。シメオンに学ぶ人が、今の時代にあってシメオンであると言えば、言い過ぎでしょうか?私はそうは思いません。
ある意味幼子に導かれて神殿においでになった聖マリアと聖ヨセフ。幼子を胸に抱いて生きることを最上の生き方として示したシメオン。彼らの姿に学ぶとき、教会という神の家族に求められていることが見えてくるのではないでしょうか。
それぞれの家族にはそれなりの形があって、一つひとつ違っているのだと思います。ですが、教会に集う家族であるならば、家庭の中にイエス様を招き入れ、一人ひとりがイエス様を腕に抱いて生きることを大切にして欲しいのです。
生まれたばかりの幼子を抱いた人の立ち居振る舞いはどんなものでしょうか。それこそ、すべてに幼子への心配りを忘れないのではないでしょうか。何を考え、何を行動するにしても、心の中にイエス様をお納めして生きる人でありたいものだと思います。

次回は、「神の母聖マリア」をお届けいたします
(ルカ2:16-21)