主日の福音2002.12.24
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
遠くにいる私たちに神は語る
主の降誕、おめでとうございます。今年のクリスマスメッセージを、次のようにまとめてみたいと思います。それは、「イエス様の誕生の意味は、離れた場所で説き明かされる」ということです。
羊飼いがそのことをいちばんよく教えてくれます。天使は、喜びの知らせ、救い主の誕生を、野宿をしていた羊飼いに知らせに行きました。イエス様がお生まれになったであろう馬小屋からも、もちろん人口登録をしに来た人々の宿屋からも遠く離れた、羊飼いに告げたのです。
いくつか、「離れた場所」を見つけだして、その意味を汲み取っていきましょう。まず、救い主の誕生は、宿屋ではなく、馬小屋でした。もしも宿屋でお産をしていたなら、心ある人は自分にできる手伝いをして、見守ってのかもしれません。けれども実際は、人々の見守る中で生まれたのではなく、離れた馬小屋だったのです。
ここには、次の意味が込められているのではないでしょうか。神様は私たちの心の準備がととのっていなくても、ご自身の予定された時間に、ご計画を進められるということです。人々はこれからも、ローマ皇帝に数えられて暮らさなければならないと考えていました。けれども少し離れた場所では、神様の計画が始まっていました。救い主に数えられて生きる喜びが、宿屋から離れた馬小屋で、始まっていたのです。
次に、天使は羊飼いに誕生の第一報を伝えました。誕生の場所からそう離れていない宿屋には人がたくさんいたはずです。なのに神は、ずっと離れた羊飼いたちのところへ行ったのです。それは、天使の言葉に心を開き、幼子を救い主として素直に受け入れる人が遠くにいたことを表します。
近くにいることで、かえって見落としてしまうことはあるものです。反対に羊飼いたちは、遠く離れていましたが、天使の知らせをまっすぐに受け入れ、幼子の前にひざまづいたのです。多くの人はまだ心の準備ができていませんでしたが、羊飼いがイエス様を拝みに来たことで、ひとまずイエス様はこの世に迎えられました。
離れたところで、イエス様の誕生を待ち望んだ人がほかにもいます。しばらくしてやってくる占星術の学者たちです。彼らは離れていたので、イエス様を王として認め、拝みに来ました。ヘロデにおびえず、ローマ皇帝の支配に遠慮することなく、まっすぐに「お生まれになったユダヤ人の王」を拝むことができたのです。
誕生の時に示された「離れた場所で神様の計画が解き明かされる」やり方は、じつはあとになって何度も繰り返されることになります。イエス様は父なる神のご計画を「人里離れたところで祈りながら」語り合います。弟子の中には、町中を離れた湖のほとりで選ばれた者もいましたし、神の国の幸いは山の上で語られたのでした。
神殿で二人の人が祈ったとき、義と認められたのは遠く離れて祈った徴税人でした。人々から遠ざけられていた重い皮膚病の人に救いが訪れます。イエス様は最後に、エルサレムの町の外で、最期を遂げました。神様のなさり方は不思議です。目の前で見ていることの意味が、しばしば離れたところで説き明かされていったのでした。
では、私たちは今日の誕生の物語をどう受け止めたらよいのでしょうか。私たちは目の前の馬小屋ばかり見つめていてはいけないのでしょうか。どこか離れた場所に行かないと、本当の意味を見つけることはできないのでしょうか。
もうすでに、私たちは二つの意味で、最初の出来事から離れた場所に立っているのだと思います。ですから、わざわざどこかに行かなくとも、「離れている私たちに、神様はご計画を説き明かしてくださる」はずです。
ひとつは、私たちはもうすでに、イエス様の誕生から2千年も離れているのです。また、イエス様の誕生の地からも、数千キロ離れているのです。それは、残念なことではなく、離れているからこそ、ご誕生を喜ぶこともできるわけです。
イスラエル巡礼に行かれた方は、経験がおありと思いますが、エルサレムまでイエス様がたどられた道を、祈りながら道行きをされたはずです。道行きの祈りをしながらであっても、通りに群がる人々はたくさんの品物をならべ、声をかけてきます。
ほかにも、私たちはここ数年、イスラエルの平和のために祈り続けているのです。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言われたその土地の平和のために、はるかに離れた国の人々が祈っているわけです。クリスマスを心静かに迎えることができるのは、もしかしたら離れている私たちなのかも知れません。
もう一つの意味で、私たちは離れていると言えます。それは、クリスマスは私たちの生活から、どんどん遠ざかってきているということです。外見だけを考えれば、商店街にクリスマスは持って行かれたような有様です。事実、教会学校のクリスマス会に、教会学校の子供たちが「地域のクリスマス会のために来ることができません」と申し出てきたのです。クリスマスはますます、教会の中から、私たちカトリック信者の生活のなかから、遠いところに行ってしまう危険があるのです。
教会の飾り付けが、人が集まらなくなってきた、前のように盛大な飾りが難しくなってきた。いろんな事で離れそうになっている今こそ今こそ、、神様がひとり子を遣わし、私たちの中に生まれてくださった意味を、よく考える必要があるのです。
今日おいでになったイエス様だけが、悲しむ人になぐさめを与えることができる。今日生まれたイエス様だけが、決して裏切られることのない喜びを届けてくれる。さまざまに痛みを抱えている私たち、求めても求めても、人間の力だけでは平和にならない世の中だからこそ、イエス様が必要なのです。
今日、確かに救い主がおいでくださいました。イエス様はお生まれになったときすでに、離れている場所、遠くにいる人、社会からも遠ざけられている人のことを心に留めてお生まれになりました。時代と場所を離れて祝っている私たちに、どうしても今日の出来事が必要だったのだということを教えてくださいますように。そして、ここで祝うことのできない人々にも、イエス様の誕生を力強く告げ知らせることができるように、喜びを胸一杯に収めることにいたしましょう。
次回は、「聖家族」の祝日です
(ルカ2:22-40)