主日の福音2002.12.8
待降節第2主日(マルコ1:1-8)
イエス様はまったく新しい未来を届けてくださる


今日の福音の招きを先に示しておきますと、「あなたたちはこれからまったく新しいお方を待ち望むのです。だから、期待に胸をふくらませなさい」ということになると思います。その呼びかけを届ける使いとして、洗礼者ヨハネが登場してまいりました。
この五年ほど、何度か紹介してきましたので、気がついておられる方がいらっしゃるかも知れませんが、待降節の第二週には、必ず洗礼者ヨハネが登場して、例の呼びかけ「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げます。これは毎年、第二週には決まってそうです。
さて、洗礼者ヨハネが、「あなたたちはこれからまったく新しい方を待ち望むのです」と呼びかけるのですが、それはご自分の活動と、これからおいでになる方の働きとを両方示して、わかりやすく告げ知らせます。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8節)。少し言葉を補って考えてみましょう。
「水で洗礼を授けた」。これは、当時の悔い改めの儀式のことなのですが、私たちの感覚で言えば、滝に打たれることとか、願をかける「水垢離(みずごり)」とか、そういう姿です。水は身を洗い清める身近なもので、目に見える儀式でした。
また、「わたしは水で洗礼を授けた」と言っておられますが、おそらく洗礼者ヨハネは、人間に過ぎない自分ということをわきまえてそう言っておられたと思われます。人間であるわたしは、この世の見える方法を使って、あなたたちに悔い改めを施したが、と言いたいわけです。
ところが、あとから来られる方は違っています。少し違っているのではなくて、まったく違っているのです。あとから来られる方、つまりイエス様は、「聖霊で洗礼をお授けになる」のです。
ここでも少し言葉を補ってみましょう。「聖霊(神の霊)」で洗礼をお授けになるのですから、イエス様は神の霊を授ける力を持ったお方です。人間であれば、神の霊を操る(という言い方は本当は控えたいのですが)ことなどできません。人間は目に見えるものを使って目に見えることをするのが精一杯です。ところがイエス様は、目に見えない「霊」の力で、目に見えない恵みを注いでくださる方なのです。
ここに、まったく新しい方を待つすばらしさが示されています。少し新しいとか、かなり新しいことを期待するのではありません。洗礼者ヨハネすら、きちんと言い当てることのできない、まったく新しい未来を、あの時代の人々に待ち望みなさいと呼びかけたのです。同じことは、私たちへの呼びかけでもあります。
今の生活からはまったく考えられない、新しい未来を待ち望む。これはなかなか難しいことかも知れませんが、最近考えさせられたお話から、みなさんといっしょに思い描いてみたいと思います。日本で盲導犬第一号を育て上げた方のお話です。
今から50年ほど前、ある会社勤めの方が会社の倒産で職を失います。塩屋賢一さんというこの方はこれからの生き方を、生き甲斐をどうやって見つけようかと思っていたのですが、大学生の時に失明して盲人となった青年河相洌(きよし)から、「ぼくの犬を訓練して、盲導犬に育ててもらえませんか?」と頼まれました。
塩屋さんは盲導犬の育成に人生を掛けることを決意し、やんちゃなシェパード犬を訓練することになります。大変な苦難の末に盲導犬第一号を、盲人であり、犬の持ち主だった河相さんに届けることができました。
わたしは、犬を預けた盲人の河相さんのことを思い巡らすのですが、塩屋さんに預けた犬を待つ間、少し新しい未来とか、かなり新しい未来を待っていたのか、と考えると、盲人の河相さんは、まったく新しい未来、耳を澄まして、びくびくしながら道を歩く毎日から、目が見えていた頃のようにさっそうと歩くまったく新しい未来を待ち望んでいたのではないかなあと思うわけです。
幸運にも、わたしは盲導犬と一緒に暮らすとある針灸の先生を知っておりまして、この方が町を歩く様子を何度も見かけたことがあります。わたしは驚いたのですが、この方はそろそろと歩くのではなくて、まるで目で見て歩いているかのように、さっそうと歩くのです。この体験がありましたので、盲導犬を手に入れてからの生活は、以前には思い描くこともできなかったまったく新しい生活を手に入れたに違いないと、じゅうぶん想像することができました。
このように、幼子としておいでになるイエス様を待ち望むということは、じつは、まったく新しい未来を待ち望むということなのです。これまでは、「目には目を、歯には歯を」という生き方が当たり前だったかも知れません。けれども、おいでになるイエス様は、「敵をも愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と導く方です。
またイエス様は、死者を生き返らせ、五千人もの人に食べ物を与え、私たちの救いのために命さえ惜しまず渡される方です。だれも、見たことも聞いたことも、想像することさえできなかった方を、私たちは今、待ち望んでいるのです。しかも、洗礼者ヨハネはご自分の告げ知らせたお方のすばらしい活躍をほとんど見ることなく去っていきましたが、私たちはそのほとんどすべてを聞いて学ぶことができるのです。
まったく新しいものを待ち望む心で、イエス様を待つことにいたしましょう。私の心に、今までにない喜びを届けるためにおいでくださるイエス様をふさわしく迎えることができるように、準備を進めてまいりましょう。

来週の福音朗読
待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)