主日の福音2002.12.1
待降節第1主日(マルコ13:33-37)
私待つわ


待降節、イエス様の誕生をお待ちする季節になりました。教会のカレンダーは、この待降節から新しい周期が始まります。今日はイエス様の誕生を待つということですから、この「待つ」という心構えについて、少し考えてみたいと思います。
もう今週から、12月に入って行くわけですが、早いなあ〜というのが正直な気持ちです。今年に限っては、新年のあいさつをついこの前したばかりのような気分で、あっという間だったような気もします。特に一ヶ月の過ぎるのが早いこと早いこと。あっという間に新聞「せいトマス」の発行日が来ますし、月に一度回っている病人訪問もやってきます。毎月一回原稿を頼まれているところからの締め切りなどもあるし、最近は一ヶ月が特に早く感じます。
ですが、それらは裏を返すと、期待している人にとっても次が楽しみだと感じる長さなんだと思うんです。毎月の「せいトマス」を楽しみにしている人、御聖体を運んで、月に一度見舞ってもらうのを毎月楽しみにしている病人やお年寄り、いろいろ考えると、早いなあと思う側(がわ)もありますが、楽しみに待って、いまかいまかと待ちわびている人たちもいるわけです。
ある時期、ひとり暮らしのお年寄りに、御聖体を運んでいたことがありました。当時は毎週御聖体を運んでは、ほんのわずかですがそのお年寄りとお話をして帰っていました。今考えると、あのおばあちゃんは、ひとり暮らしだったのだから、わたしが御聖体を運んでいくことが、もしかしたら毎週のたった一つの楽しみだったのかしらと思ったりもします。次の家を訪ねる時間も決まっている中でのお見舞いですから、長くは居られませんでしたが、心から楽しみに待っていたのかも知れません。
そう思うとき、今日の待降節第1主日の、「待つ」ということはもっと意味を増してくるのではないでしょうか。私たちが心からイエス様の誕生を待つからこそ、イエス様は間違いなくおいでになり、私たちの心をたしかに喜びで満たしてくださるのだと思います。
どちらかというと、「待つことは受け身」と取られがちですが、今日の福音はそうでもないよ、ということを示してくれました。「いつ家の主人が帰ってくるのか、あなたがたには分からない」(35節参照)。疲れるくらいに張りつめて待つ必要はありませんが、主人は必ず戻っておいでになる。そのことを忘れずに、生活を整えようとすれば、それは怠惰な生活はしておれないことが分かります。
私たちは待降節の間、イエス様を待つために何をしたらよいのでしょうか?ひとつは、目に見える形で何かをして準備をすることでしょう。すでに目に見えることがいくつか始まろうとしています。今週からクリスマスに向けての聖歌の練習をすることになりました。イエス様をお迎えする心に、喜びの歌が満ちあふれていることはとてもよいことだと思います。
また、子供たちは今週からイエス様へのお捧げものとして、思い思いの貯金箱を作って献金を準備することとなりました。あるいは太田尾の教会学校では、クリスマス会のために劇を準備しています。
ほかにもあるでしょうか?一見当たり前のようですが、私はやはり、良いクリスマスを迎えることができるように祈ることが、「待つ」という意味で一番大切なことではないかと思います。
ただ祈るのではありません。イエス様を待ち望むというつもりで祈ります。今年はどんな喜びを届けてくださるために、おいでくださいますか?神様の声に耳を傾けながら祈るのです。あなたを待っていますと祈る人こそ、いちばんよい形でイエス様をお待ちすることができるのだと思います。
イエス様を待ち望む人がいる限り、どんな人にもクリスマスは喜びとなって迎えることができるのではないでしょうか。大司教様を失った長崎教区は人間的には、クリスマスどころではないのかも知れません。浮かれ気分でいるよりは、新しい牧者をはやくにさがさなければいけないのかも知れません。
また、この時期に愛する人を失った方もおられることでしょう。私は五年前には、お仕えしていた主任神父様を失って途方に暮れた中でその年のクリスマスを迎えました。けれども、そんな中でも、イエス様は喜びとしておいでくださったのでした。
あなたがクリスマスを心から待ち望むなら、イエス様は喜びとしておいでくださいます。どんな悲しみや苦しみの中でも、イエス様を待つことができるなら、イエス様は決してその期待を裏切ることはないのです。
そして、イエス様を心から待ち望むのであれば、祈りつつ待ち望むことにいたしましょう。祈る姿こそ、イエス様を待つこれ以上ない態度だからです。これからの四週間を、降誕祭を喜びのうちに迎える良い準備の期間とすることができるように、ミサの中で願っていくことにいたしましょう。

来週の福音朗読
待降節第2主日(マルコ1:1-8)