主日の福音2002.11.24
王であるキリスト(マタイ25:31-46)
王の国民に加えてもらう身近な道は

みなさん大なり小なり、「団体」とか、組合とか、そういうものに関わっていたり、関わった経験がおありだと思います。間違っていたら申し訳ありませんが、たとえば連合婦人会。各教会の婦人会というひとつのまとまりがあって、それぞれの教会婦人会が、地区として協力しあい、情報交換や、一致して大きな活動をめざしたり、ある時はどこかの教会婦人会を助けるために立ち上げられたものだと思います。ここまでは間違っていないでしょうか?
その連合婦人会は、当然教会婦人会が支えていて、教会婦人会は教会の女性信徒が会員となって支えている。だれが考えても当たり前なことです。会と言うからには会員がいて、まあたとえば会則があったり、年間行事があったり、役員さんがいたりする。これらはごくごく自然なことです。
そこまでだれもが納得できるのでしたら、今日お祝いしている「王であるキリスト」も、きっと何かに気がつくのではないでしょうか?もうおわかりかと思います。「イエス・キリストは王である」。王であるからには、王国があり、王国の国民がいて成り立つのです。国民もいないのに、「わたしは王であるぞ」と叫んでも空しいことです。
さて、キリストの王国はどこにあるのでしょう?王の導きのもとに暮らす国民はどこにいるのでしょうか?
ここまで考えてみて、はたと考えが止まってしまうのではないでしょうか。そうでないことを願いたいのですが、うーん、国民とはだれのことだろうと考え込んでしまうなら、今日の福音を味わうことには意味があると思います。
イエス様は今日のたとえ話で、ご自分が王として再び来られるときの様子をかいま見せてくださいました。そこには、王の国民として迎えられる人間と、王に退けられ、滅びへと追いやられる人間とがいると教えています。
羊にたとえられた「王の国民」には、父なる神の祝福が与えられ、国を受け継ぐとされています。反対に、王に退けられた人間たちは、呪われ、罰が永遠に続くというのです。神に逆らった地上での時間は限られているのに、罰は永遠に続くのです。
福音書で王の国民として招かれた人々と、退けられた人々の違いははっきりしています。困っている人、病気の人、助けが必要な人に心を込めて奉仕したか、しなかったかです。この世の中で助けを必要としている人を見て、イエス様を助けることと考えたか、考えなかったかで、イエス様の国民になることができるか、国民になれないのかが決まるというのです。
ここでもう一度、王の国民の話と、婦人会の会員の話を結びつけてみましょう。すでに会員になられたかたがたに加えて、会員を増やすためには、誘ってあげないといけません。何もしなかったら、手をこまねいていても決して会員は増えないのです。
天の国はどうでしょうか?天の国の国民は、すでに天国で神の幸せに与っている方々が正会員かも知れません。それから煉獄に留め置かれている人々は、準会員ということになるでしょう。これらの方々は、会員であることが確かめられている人々です。その上に、王の国民を増やすためには、どうしたらよいのでしょう。
それは、この地上にいる私たちが王の国民となれるような人生を送ること、これ以外にありません。まだ私たちは正会員でも準会員でもなく、自分でそれをそれを選ぶ立場にあるのです。もちろん選ぶと言っても、悪いほう、滅びに至る道を選ぶ理由はどこにもありません。地上で暮らしているうちから、王の国民として招かれるように、困っている人に手を差し伸べる。人の痛みを自分の痛みと感じて生きる人になるように求められています。
王であるキリストは、すでにご自分の国民をもっておられて、国民に永遠の喜びを与え続けておられます。キリストはいまも、ひとりでも多くの人がご自分の国民となることを願っているのです。私たちは、王の国民となれる生き方をめざし、そして、身近な人にも声をかけることが求められているのではないでしょうか?
人の痛みを心から考えてあげる人になりましょう。それこそ、王であるキリストの国民となれる身近な道です。そして同じ思いを分け合える人をこの社会に増やしていくことができるように、祈ってまいりましょう。

来週の福音朗読
待降節第1主日(マルコ13:33-37)