主日の福音2002.11.17
年間第33主日(マタイ25:14-30)
御覧ください。ほかにもうけました

今日のたとえ話は、ほとんどの方が耳にしたことがあると思います。その中でさらに何か新しい発見をしていくというのは、私にとっても大きな挑戦です。それでも、やりがいのある仕事だと思っています。
さて、たとえの中に出てくる「タラントン」という単位をどう料理するかということが、今日のいちばんの鍵になると思いますが、考えているうちに、ひとつの形にまとまりました。
タラントンは、当時の単位としては、いちばん大きな単位で、6千ドラクメに当たります。1ドラクメが当時の1日の給料に相当すると言われていましたから、1タラントンは週5日から6日働く人の、20年分の給料と言うことになります。
ここまでは数字の計算なのですが、もっと生活に当てはまる何かを探していましたら、ありました。私たちがだいたい二十歳くらいから働くとすると、定年までだいたい40年働くわけですが、そうすると一人の人が定年まで働くと2タラントンの給料を稼ぎ出すということになります。
ここからさらに一ひねりしたのですが、5タラントンを預けたというのは、一人の人に、二人分の人生を預けてみたということなのではないでしょうか?また、2タラントンというのは、一人の人にちょうど一人分の人生を預けてみたということになります。
その後どうなったか。5タラントン預かった人、つまり、一人の人に二人分の人生を預けられた人は、ほかに5タラントンもうけたとされています。こう考えてみてはいかがでしょうか。つまり、この人は、例えば結婚生活に招かれた人で、配偶者の人生まで預けられて、立派に配偶者を守り抜き、さらに二人の子供まで立派に育て上げたということです。
同じように、2タラントン預かった人は、自分の人生ちょうどを預かりましたが、良き配偶者に恵まれて、その人の人生も守ってあげたのです。自分一人だけの分を任せられましたが、さらにもう一人の人生を幸せにするほど預かったものを豊かにしたのです。
さて問題は、1タラントン預かった人です。主人は、それぞれの力に応じて財産を預けました。そうであれば、主人はこの人に、まずは最初の20年の人生を預けてみたのかもしれません。けれども預けられたほうは、社会人としての最初の20年を無駄にしたのでした。何も社会に貢献できず、だれをも幸せにできなかったのです。
何が問題だったのでしょうか?きっとそれは、「私が神様から預かった人生はすばらしい」という気持ちに欠けていたのではないでしょうか。たくさんの人と出会い、いろんなことを教えられ、学んだことを糧として、時には人様のお役に立つというこの人生を、喜んで受け取らなかったことに問題があるのだと思います。
私の与えられたもので誰かに、何かにお役に立てるはず。そう思っている人とそうでない人との差はどれほど大きいでしょうか。最近、偶然にとあるテノール歌手の話を耳にしまして、私に与えられた人生はすばらしいのだという思いを持ちました。
新垣勉さんという方なのですが、この方はラテン系アメリカ人を父に沖縄でうまれ、助産婦の手違いによって全盲となり、父母の離婚、父親の失踪と大変苦労なさったのですが、恵まれた声の持ち主で、現在は歌うことで多くの人々を勇気づけているのです。今も精力的に、全国各地の教会や、学校、施設で歌い続けています。
彼が自分の人生をすばらしいと思うようになったのは、本格的に歌を勉強するための試験を受けたときでした。試験官が、「あなたの声はすばらしい。日本人でこれだけの声の持ち主はいない。だから、どんなことがあったにしても、声をプレゼントしてくれたお父さんに感謝しなさい」と言われたのだそうです。その時から、新垣さんはお父さんを心から許し、今ある自分、今の人生をすばらしいものと受け止めて、ほかに5タラントンをもうける生き方を続けているのだと思います。
私は、1タラントン預けられた人というのは、注意を呼び覚ますためで、本当はだれもがひとまず2タラントン、つまり一度きりのすばらしい人生を与えられているのだと思います。
あとは、一人ひとりが、預けられたものが「すばらしい」のだと気づき、そこから、もう一人の人を幸せにする生き方や、何人もの子供を育てたり、多くの人に喜びを届けて神様に感謝を捧げる生き方を期待しているのではないでしょうか。
「よくやった。(中略)主人といっしょに喜んでくれ」。私に今を与えてくださった神様にそう言われる生き方を、確かなものにしていくことができるように、今日のミサの中で祈っていくことにいたしましょう。

来週の福音朗読
年間第34主日(マタイ25:31-46)