主日の福音2002.11.10
年間第32主日(マタイ25:1-13)
二度とない場に立たされる前に
今日から土日のミサは、胸元につけているピンマイクでお説教をすることになりました。新しい機材を寄付していただいて、感謝しております。以前と違って感度も良好だと思います。これでますます、「エー、あー、ゴホゴホ」など言えなくなりました。気を引き締めてお説教にかかりたいと思います。
皆さんは、急に何かを言い渡されて、困ったなあ、という体験が一つや二つはおありだと思います。身近なところでは、日曜日の礼拝に参加して、「聖書を読む人が来ていないから、あなたちょっと読んでちょうだい」ということはままあることだと思います。
立場が違うと、「ひとつここであいさつをお願いします」とか、「乾杯の音頭をお願いします」といわれて、「いや困った、すぐすぐ言われてもなあ」というようなことがあると思います。
たいてい、そんなときは「急にやってくる」もので、何も構えてはいないのですが、場合によっては、常日頃から考えておいてもよいということもあります。今日はこのあたりから考えてみたいわけです。
例えば、「聖書を読んでください」というようなお願いは、「ピンチヒッターオッケーよ」と言えるように、教会に入ったときに一回読んでおくと、もうそれだけでりっぱな準備になると思います。「急に」というようなことは、案外しょっちゅうあるものです。常日頃から「急にまわってきたとき」の準備を何人かしてくださることは、教会を成熟させていくと思います。
じつは、こうした頻繁に起こる「急に」という場面は、「二度と取り返しのきかないとき」を準備する良い機会になると考えます。それは、福音書のたとえ話にある、「花婿を迎えるとき」「宴の席の戸が閉められるとき」のことです。もっと言うと、私たちが神様の前に立たされるときと言っても良いでしょう。
たとえ話のおとめたちは、五人は賢くて、五人は愚かでした。花婿を出迎えるチャンスは、それが夜中までずれ込んだとしても、一回きりしかありませんでした。二度とやって来ないわけですから、失敗もやり直しもききません。そんな機会を確実にものにした賢い五人のおとめたちは、それまでに似たようなことを通して、何度も心の準備を積み重ねていたのではないでしょうか。
「ここでひとつ挨拶をしてください」「皆さんに感謝の言葉を述べてください」急に言われた経験がおありかも知れません。これからはぜひ、そういう機会を、「神様の前に立つまでの練習」と思って、引き受けてみてはいかがでしょうか?私たちには、二度と来ない、一度きりの機会をものにするための、小さな小さな練習が、人生のなかで何度か与えられているのではないでしょうか。
私は、福岡の学生時代の思い出で、今日の話に結びつく貴重な体験をしたことがあります。私が主人公ではありませんでしたが、これは考えさせられる話だと思います。
福岡の大神学校では、最初の二年間は「予科練」と言いましょうか、「初年兵」みたいなもので、屋根裏のような広い部屋で皆でいっしょに寝ることになっています。二年生の中に、起床係が一人おりまして、この方が寝る前に号令をかけて一斉に床につき、朝も号令をかけて一斉に起きるという生活でした。
で、号令は、荘厳にラテン語で唱えます。寝る前は「ラウデートゥール・イエズス・クリストゥス」朝は「ベネディカムス・ドミノ」というわけですが、ま、共に主であるイエス様に挨拶しますみたいなものなんですが、朝の号令「ベネディカムス・ドミノ」のかけ声を、しばらく覚えていて欲しいと思います。
いっしょに大部屋で寝ていますと、当然いびきのうるさい人や、寝言を言う人もいるわけですが、一年生の私が、諸先輩方から聞いた話では、二年生の号令をかける小隊長さんは、おっそろしく真面目な人で、寝言でさえも「めでたしせいちょうみちみてるマリア」とか、「これわが過ちなりわが過ちなり、わがいと大いなる過ちなり」と言うらしいと、最もらしく教え込まれていたわけです。
ほんまかいなと思っていたのですが、いやあ、噂は本当でしたね。私はついにその現場に出くわしたんです。いつものように号令をかけて皆が寝静まり、あとで確認したんですが夜中の1時頃に、この小隊長が、朝の号令「ベネディカムス・ドミノ」と、大声でやったんです。
いやあたまげました。噂は本当だったわけです。さらに驚いたのはそれを聞いた多くの人が、朝だと思って電気をつけ、起きあがったのを見て、私は心の底から、この小隊長を尊敬するようになりました。
何がすごいかと言ったら、寝言でですよ、「主をたたえよう!」と言えるということは、いかに常日頃、主をしたい、主をあこがれているかの、決定的な証拠だと思うんですね。寝てもさめても、神様をあこがれていた小隊長だからこそなしえた伝説だと思いました。
一回きりで、二度と戻れない場に、私たちは必ず立ちます。神様が私たちを知らないと言えば、どんなに弁明しようが、説明を願っても、戸は閉められ、私たちは外に投げ出されるのです。
神の決定的な招きを確実にものにできるように、常日頃から「急にやってくる」出来事を小さな練習だと思って受け止め、生涯をかけて準備する生活をめざすようにいたしましょう。
来週の福音朗読
年間第33主日(マタイ25:14-30)