主日の福音2002.11.3
年間第31主日(マタイ23:1-12)
もうだれも、あなたに重荷を負わせない
十一月に入りました。カトリック教会は今月を「死者の月」と定め、亡くなったすべての方々のために祈るように促しています。日曜日ごとのミサの中で、身近な方々を思い起こして、祈っていただきたいものです。また、今日のミサの中では、私たち長崎教区民の父であったフランシスコザビエル島本要大司教様のために、特に心を込めて祈ることにいたしましょう。
さて福音は、律法学者たち、ファリサイ派の人々の偽善を指摘して、私たちへの注意を呼び起こそうとしています。律法学者・ファリサイ派の人々は、言葉と行いが裏腹、言っていることとしていることは似てもにつかぬものでした。
イエス様が今の時代に生きていらっしゃったら、私は太田尾近辺では真っ先に厳しいお叱りを受けることになると思います。風邪を引いていて、調子が悪うございますといいながら、早めに休もうとはしません。なかなかお説教がまとまらないと言いながら、午前中に身にならないことばかりしています。
これでは、「言うだけで、実行しない」「そのすることは、人に見せるためである」と、きっとおしかりを受けることでしょう。それでいて、「イエス様の喜ぶことは何か考えて生活に結びつけていきましょう」とは、よく言えたものだと申し開きの言葉もありません。
福音の厳しい警告を前にして、同じことしているなあ、何やっているんだろうとつぶやいている。こんな裏腹な態度を振り返るときに、一つのことが浮かび上がってきます。だんだん追いつめられてくると、人間は、正反対のことをして釣り合いを取ろうとするのではないだろうか、ということです。
風邪を引いていれば、さっさと布団に入って養生すべきです。ですが、いろんな理由を付けて、机の前から離れません。やれ信仰養成講座の原稿ができていない、録音したお説教をひとまとめにしたいから、いいことが思い浮かんだから、忘れないうちに書き留めよう。まったくきりがありません。
どんなに後回しにしても、身にならないことをして気を紛らわせようとしても、最後には自分に回ってきます。正面から向き合う、今まで遠回りしたことを正直に認め、ゆるしを願って胸を打つ。そこから、何かが生まれてくるのではないでしょうか。
イエス様は、律法学者・ファリサイ派の人々とはまったく違う生き方を教えようとされます。背負いきれない重荷を人に載せるのではなくて、その人の重荷を担ってあげようとする生き方。「聖句の入った小箱(日本の修験者が紐で頭に結びつけているような小箱です)を大きくしたり」といった、小さなものを大きく見せる態度ではなくて、「右手のしていることを左手に知らせない」ような生き方。宴会でも、末席に座りなさいと仰いました。
無理に見栄を張ったり、強がったりするのは、必ず何か裏があるものです。いつもうまくいっているように見せなければいけないとか、この面で私はできなかったとか、失敗したとか決して言えないとか。いろんな事で追いつめられている、プレッシャーを感じているから、とんでもない無理をするのです。
イエス様は、「だれにも見栄を張ることはない」「だれにも先生と呼ばれなくてもよい」と仰って、私たちから重荷を取り去ろうとしているのです。イエス様ご自身がだれにも見栄を張らず、強がらない生き方をなさって、あなたもこうしなさい、だれにも自分を大きく見せる必要なんてないのだよと、私たちの肩の荷を降ろそうとしておられる。ここに私たちは目を留めたいと思います。
何か一つでも、「先生」と言われるものを持っているとしましょう。それだけで私たちは、一つ構えてしまいます。「先生」は、間違ってはいけない、「先生」が、知らないとは言えない、などです。
「だれにも、何に対しても、強がらなくてよいのだ」。イエス様の最後の呼びかけは、このような受け止め方で考え直すと、よく分かるのではないでしょうか。「仕える者になりなさい」。だれにも、命令や指示を出して、自分の力を見せつけなくてもよいのですから、今日から私は「仕える者」です。仕事上、部下に命令するときでも、奉仕しているのです。
「へりくだる者は高められる」。「私はあの人よりましと思っている。だから、あの人よりつまらないところは見せられない」それもあなたの重荷になっていたのでしょう。イエス様が、今日あなたの重荷を取り去ってくださいます。もう今までの重荷は肩から降ろして、謙虚な生き方を学びましょう。
私に、荷物となっているものが、一つでも、何かないでしょうか。イエス様にその重荷を降ろしてもらい、だれにも強がらない、だれにも見栄を張らない生き方を教えていただきましょう。イエス様は、仕える者の生き方を教えてくださるただお一人の先生なのです。
来週の福音朗読
年間第32主日(マタイ25:1-13)