主日の福音2002.10.20
年間第29主日(マタイ22:15-21)
私も「私」を神様に返しましょう
季節の変わり目なのでしょうか?喉をやられまして、頭は重いし、からだも普段にも増して重く感じます。皆さんは風邪など引いておられないでしょうか?
今日の福音で、あーこんな小さなところから、良いものが見えることもあるのだなあという想いで、一つの発見をいたしました。それは、イエス様の言葉「税金に納めるお金を見せなさい」(19節参照)です。何の気なしに投げかけたこの言葉、慎重に読み返すと、二つのことが隠されていることが分かります。
一つは、イエス様がそのお金を持ってなかったということです。たいしたことでもなさそうですが、この貨幣は、納めたくない相手、ローマ皇帝の肖像が描かれていました。そして、当時いちばん流通していたお金だったようですから、イエス様はまったくこの世のものにとらわれない生き方をしておられたということです。イエス様はデナリオン銀貨を手に握らないことで、自由な心を手にしておられたのです。
反対に、ファリサイ派の人々とヘロデ王のシンパ(応援者)たちは、デナリオン銀貨を手に持っていました。彼らはイエス様にデナリオン銀貨を示したからです。この人たちは、心ではローマ皇帝に税を納めることを嫌っていたのに、そのお金を手に持つ、そのお金にすがって生きることは納得していたのです。
そこで、イエス様は彼らに厳しく問いかけます。「これはだれの肖像と銘か」(20節参照)。あなたがたはしぶしぶでもローマ皇帝の命令に従っているではないか。この世の王に従うのなら、ましてあなた自身の王である神には、もっと忠実に従うべきではないのかと、言いたいのです。
イエス様は、ある時、ペトロに釣りに行ってもらって、税金を納めたことがありました(マタイ17章27節)。だから、税金を納めることには、あまり執着がなかったのだと思います。硬貨にローマ皇帝の像が描かれていようがいまいが、それは興味がなかったのです。もっと大事なこと、心に刻まれている肖像と銘に、細心の注意を払うようにと促したかったのです。
ここで、イエス様の仰った、「神のものは神に返しなさい」という言葉が重みを増してきます。この世の王は、貨幣に自分の像を描くことぐらいはできるでしょう。それを皆に配って、また自分に納めろと言うことすらできるかも知れません。けれども、私たちの心の奥底に名前を刻んで、命を与え、命を呼び戻すことはできないのです。それはただおひとり、神様だけができることです。
私たちは、言ってみれば、神様に名前を刻まれ、神様に命を与えていただいたものではないでしょうか。どんなにがんばって、自分でこの世を生きていると言っても、だれも自分の命を延ばすことはできません。神様が決められたときに、神に呼び戻されるわけです。
そうであれば、私たちは何よりもまず、神に与えてもらったものを神に返す生き方に、いちばん気を配らなければいけないのだと思います。それは、「私のものは私のもの」という考え方から、「私のものは、神様のもの」という考え方に、移ることと言ってもいいかも知れません。
「私のものは私のもの」そう言っているあいだは、きっと与えられた時間を神様のために、また人のために使いたがらないと思います。神様に声を上げる祈りも、神様の声を聞く聖書朗読も、神様に教えていただく教会学校も、惜しいと思って、時間を割かなくなるかも知れません。
ところが、「私のものは神様のもの」と感じるようになったとき、ミサに行くその時間も、祈りをするちょっとした時間も、聖書を1ページでも読んで耳をすまそうとすることも、意味があると思えるようになるわけです。ちょっとした心の持ちようですが、それだけでがらっと変わるのです。
同じことは、私一人に当てはまることではありません。目の前にいるこの人も、わたしが知っているあの人も、「私のものは神様のもの」という思いを育ててくれるように、何か案内をすることができるのではないでしょうか?
明らかに、自分の体をこわすようなことをする人がいます。生活に不相応な浪費をする人がいます。五感から、心を傷つけるようなものをたくさん入れる人もいます。こんな人を目の前にして、「あなたの心と体は、あなたのものであって、同時に神様に返すはずのものですよ」と、言葉や態度で伝えること。これはとても大きな働きかけになるのです。
「神のものは神に返しなさい」。まず私たちが何をすべきかに気付き、そして、周りの人にもそれを知らせていくことができるように、今日のミサの中で恵みを願ってまいりましょう。
来週の福音朗読
年間第30主日(マタイ22:22-)