主日の福音2002.9.29
年間第26主日(マタイ21:28-32)
そう、考え直せるってステキ

昨日は太田尾教会でお説教したのですが、何だか打ちのめされたような気持ちでした。というのは、お話しする内容に、自分で納得しないまま入っちゃったからです。内心、「何を言っているんだろう?」とかつぶやきながらのお説教でした。太田尾の皆さん、許してくれええ。
でも、今日はちょっと違います、昨日と比べたら、頭の中はすっきりです。たとえ話の中の一つのこと、「あとで、考え直して出かけた」兄の気持ちが、少し読めたと感じているからです。
二人の子の兄ですから、この兄は長男です。父親は長男には期待するものです。きっと期待に答えてくれると思って頼んだのに、嫌ですと言われてとても悲しかったと思います。長男は、あとでそのことに気付いたのではないでしょうか。
「自分は長男で、父親が長男に期待するのは当然じゃないか。嫌だと言われたらどんなに悲しむだろう。今からでもいいから、ぶどう園に行けば、お父さんを悲しませたとき以上に、喜ばせてあげられるんじゃないだろうか」。
兄の心の動きには、二つのことが入っていると思います。一つは、今からでも間に合うのではないか、ということ、もう一つは、「お父さんはどう思うだろうか」この一点を、兄は考えて思い直したということです。
神様は、どんな生き方であってもやり直せるようにと、時間を与えてくださるのだと思います。人が聞いたらびっくりするような裏道を歩いていても、考え直す時間を神様は与えてくださいます。そして考え直すなら、まだ間に合うのです。
印象的な一組の若い夫婦のことを紹介したいと思います。縁があって私がお勉強を引き受けました。よく話し合って、洗礼も受けてくれることになって、二人ともカトリック信者として結婚しました。
時間が過ぎて、思いがけないときにこの夫婦から相談を受けることになりました。子供が産まれるのですが、どうしても洗礼を授けないといけませんか?と言います。私は納得して洗礼を受けましたが、一人目の子どもは実は産まれてきませんでした。今度こそはなににでもすがって、無事に産みたいのです。
腹帯をお清めしてもらって、お守りをいただいてきて、なんとか無事に産みたいのです。教会にはそんな儀式がないじゃないですか。どうしても、洗礼を受けさせないといけませんか?
私はそんなことだとは知りませんで、本当に心を痛めました。幸いに、腹帯は、司祭館に持ってきて神父様に清めてもらっている場面を目の前で見たことがありましたので、教会でもできることがありますよと伝えました。
結局、お話をよく聞き、精一杯のことを返事して、もう一度考えてみると返事をしてくれました。お守りに頼るのではなくて、いのちを育んでくださる神様に信頼して一日一日を過ごす。もう一度考え直して、なんとか気持ちを持ち直したのでした。
私は、その方を見て、今度こそはという思いを痛いほど感じました。いったんは、「いやです」と答えたのですが、でも思い直して、宿ったいのちに本当に必要なことを、神様の前で考え直したのだと思います。その時に、あー、考え直せるってステキだなあと、つくづく思いました。
思い詰めてしまってとか、混乱して、また、あまりにも疲れて、私たちはもういやですと言いたくなるときがあるのだと思います。それでも、もう一度、考え直せるってステキなことです。
神様の望みに答えて、もう一度やり直した人は、すべてよい結果を受けました。お言葉ですからと言って、もう一度網をおろしたとき、不思議な大漁を経験しました。かわいい娘が死んだと聞かされたあとで、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われてそれでも信じた会堂長は、お嬢さんを返してもらいました。
子供のパンを取って子犬にあげてはいけないと言って退けられそうになった母親は、それでももう一度粘って、子どもの健康を返していただきました。当時の人々が、もう一度考え直し、もう一度より頼んで救われたのですから、私たちも同じようにしていただけないはずはありません。
注意しないと、私たちはいつの間にか自分に合わせて何でも考えるようについついなっていくものです。「はい、承知しました」と元気よく返事していれば、あとをついてきてまで確かめたりはしないだろう。しばしば、自分の良いように考える癖が付いているのです。
今日のたとえ話は、繰り返し自分に言い聞かせて欲しいと思います。「どちらが父親の望み通りにしたか」。私がしようとしていることを、神様は喜んでくれるだろうかと、常に考え直す謙虚さを持ち続けましょう。神様は喜ぶだろうか?それを忘れずに考えに入れる人こそが、本当の意味での、「考え直す人」なのですから。

来週の福音朗読
年間第27主日(マタイ21:33-43)