主日の福音2002.9.22
年間第25主日(マタイ20:1-16)
ふさわしい賃金を喜んで受け入れよう
今日皆さんと一緒に耳を傾けた朗読は、イエス様の物語を書いた四つの福音書のうち、このマタイだけが取り上げているものです。と言うことは、マタイが伝えたいイエス様が、ここにはぎゅっと詰まっているということになります。また、偶然かも知れませんが、9月21日は、マタイ福音記者の祝日でもありました。
マタイ福音記者がどうしても伝えたかったイエス様なんですが、正直言うと、まだ、私にははっきりつかめていません。今日登場するぶどう園の主人は、あんまり寛大すぎて、私たちの今の考え方になじみません。12時間みっちり働いた労働者にも、1日分の日当、夕方5時に雇われて、1時間しか働かなかった労働者にも1日分の日当が支払われたのですから、最初の人たちはやってられないと思うことでしょう。
けれどもマタイは、このたとえを通して、ほかの福音記者が語らないイエス様を語ろうとしているわけです。先に言いますが、私もまだ「これだ」とつかめているわけではありません。なんとか、皆さんと分かち合いたいと思いますが、今回は、「最初の人からはじめて、最後の人まで、同じ日当を支払った」ということに注目してみたいと思います。
この1デナリオンという賃金は、ある労働者にとっては不満の種となりましたが、少なくともぶどう園の主人にとっては、納得のいく「何か」だったのです。
そこで、両方の側から受け取った賃金を考えてみましょう。労働者の側から考えると、賃金はどうしてもその日1日を過ごすために必要なものです。日当で生活していた人にとっては、一日の早い時間にその日の日当をもらいたいはずです。ですから、朝6時に仕事が決まった人は、その時は大喜びだったと思います。
一方、仕事が決まらない人は、少し遅い時間まで待ったとしても、やはり一日分の日当が欲しかったのではないでしょうか?仕事は欲しいけれども、自分をだまして払ってくれない人には付いていきたくありません。そうこうしているうちに、その日一日を無駄にしてしまった人たちが、広場にいたのではないかと思います。
ぶどう園の主人のほうからすると、朝早くから働いてくれるのに越したことはありませんが、それとは別に、私はあなたをだましたりしない、私にかけたあなたの信頼を裏切らないということを、示してあげたかったのだと思います。遅くに雇えば、雇われる側からすれば、半日分の賃金とか、あるいはもっと少ない額でも仕方のないことです。けれどもこの主人は、一日待ち続けて、今日の糧を探していたあなたにも、一日分の糧をあげよう。そう言っていつくしみを示そうとされたのだと思います。
ぶどう園の主人と、雇われた労働者の思いは違っていました。早くに今日一日の保証を得た労働者は、遅くにやってきた人を「雇われる側の立場」で見ています。あいつは、半分しかもらえないはずだ。あいつはもっと少ないはずだ。
けれども、ぶどう園の主人は、全ての労働者、自分が雇った全ての人を、「私は、あなたの期待を裏切らない。誰もが、今日一日、今日一日と一生懸命なのだから、遅くなってしまったあなたにも、今日一日分を報いてあげるよ」そういう思いで全ての労働者を見ていたのだと思います。だから、一番最初の人から始まって、最後の人まで、今日必要な糧を与えてくれたのでしょう。
この報いは、私たちが天の国に迎えてもらうことと考えても良いと思います。人生の最初から最後まで信頼を寄せて生きた人にも、天の国は与えられます。最後の最後に、やはりあなたしかいませんと自分を委ねた人にも、天の国を与えてくださいます。お互いがお互いを見て、あなたは片足しか天の国に入れないはずだとは言えません。迎えてくださるのは神様だからです。
大変デリケートな問題だと思います。イエス様のなさり方に、私たちは「その通りです」と、言いづらいかも知れません。実はマタイも、そうだったのかも知れません。でも、「神様、あなたの報いに何も不足はありません」と、答える信仰を願いたいと思います。「ふさわしい賃金を払ってくださる」お方は、父なる神しかいないのですから。
来週の福音朗読
年間第26主日(マタイ21:28-32)