主日の福音2002.9.15
年間第24主日(マタイ18:21-35)
仲間を憐れむ人は、神様から赦されている人
今日のたとえ話、お金の貸し借りを引いて進めていますが、例えば今の教会のお説教で、お金のたとえを引いてお話をしたら、みなさんはどんなふうに感じるのでしょうか?私がもしも聞く立場であったなら、あまりたとえ話にお金の貸し借りを使いたくはないです。ところが、イエス様はまったく気にせずにお金の貸し借りをたとえに引きました。
どういうことなのでしょう?おそらく、お金の額や、お金絡みということが話の中心ではないと、はっきり分かっていたので、イエス様にとっては今日のようなたとえもまったく苦にならないのだと思います。ただ、私たちは今の時代に生きて、あまり、この手の話は聞きやすいとは言えないのかも知れません。それは、どうしても金額の大きさや、貸した、借りたということに目を奪われてしまうからだと思います。
イエス様は、まったく違うところに中心を置いていました。私たちも、イエス様が重く考えていた中身に目を向けるように、しっかり心の目を開いておきましょう。ここでイエス様は、「赦し」について話したかったのです。今の社会で神経をとがらせる貸し借りの問題よりも、イエス様にとっては、「赦し合う」ことのほうが、はるかに、大切だったのでした。
今回は、たとえ話は少し触れるだけにしたいと思います。王と家来の間の貸し借りは、果てしないものでした。それに比べて、家来と家来の間の貸し借りは、限られた額でした。果てしない額の負債を赦してもらった家来は、限られた額の負債に目くじらを立てました。果てしなく赦してもらったことを、よく分かっていなかったのです。
これが、今週私たちが考え直す点だと思います。私たちは、神様の前では、果てしなく赦されてきたのです。ほかにも、限度をつけずに与えてもらい、あふれるほどに慈しんでもらってきたのです。この点を、生活のどこかで気がつく必要があると思います。
実は今日のお説教、土曜日の夜6時ぎりぎりまでまとまらずに唸っておりました。いつまでたっても腰を据えてとりかからなかった罰だと思います。さまざまな雑用を全部横に置いて、何も邪魔を置かないでよく黙想すれば、きっともっと早くに出来上がったことでしょう。けれどもそうしなかったのです。
そうして、うんうん唸ったあげくに、「イエス様、なんとかしてくれませんか?」と、こぼしていたのでした。それなのに、イエス様は私を憐れに思い、溢れるほどに「ことば」を用意して下さったのです。私は本当は、今日のお説教は間に合っていなかったのです。
それは、自分にとって、1万タラントンの負債を赦されたようなものでした。日曜日のお説教という、誰も取って代わることのできない大きな務めを、危うく「できません。ごめんなさい」と言おうとしていたのです。今ここに、赦されて立っていると、心から感じています。
そうであれば、私は出会う多くの人に、自分が赦されたことをお返ししていかなければいけないわけです。自分は取り返しのつかないことを赦されていながら、教会学校の小学生に、中学生に、神様の心の広さ・深さを伝えてきたのだろうか?愕然としてしまいます。喉元を過ぎれば、暑さを忘れてしまう弱さを持っている私にとって、いつも戒めなければいけないことです。
私たちは誰もが、神様の前では取り返しのつかないことまで赦されて生きているのだと思います。神様が貸したものを返しなさいと言い張るなら、私たちには何百年かかっても、返し終わることはできないのではないでしょうか。
がまんの限界に来て、心の中で人を傷つけるほどに憎んだかも知れません。ひどく傷つけられて、仕返しをして、それは内々で解決したかも知れません。本当なら、私は今胸を張って正しく生きてきたと言えない人生を送ってきたかも知れません。でも、それでもあなたは今赦されて生きている。
または、処罰されずに、たまたま大事にいたらずに、赦されたことを忘れそうになっているかも知れません。大きな赦し・憐れみを受けた人生であるなら、それは、感謝して、お返しする必要があるのではないでしょうか?
そこで、神様から溢れるほどに赦され、愛され、与えてもらっていることを、周りの人を通してお返ししましょう。返す当てのない人を、できることなら、捕まえて首を絞めるようなことのないようにしましょう。私たちは最後には、神様の慈しみにすがるしかない、ちっぽけな人間なのですから。
お互い、助け合っていきたいものだと思います。
来週の福音朗読
年間第25主日(マタイ20:1-16)