主日の福音2002.9.8
年間第23主日(マタイ18:15-20)
わたしもその中にいる(大司教様追悼説教)

御ミサの初めにもひとこと言い添えましたが、今日は長崎教区のすべての教会が、亡くなられたフランシスコザビエル島本要大司教様の追悼のミサを捧げております。私は、かつての大司教様を振り返るために、今日の朗読聖書から、一つの言葉を取り上げたいと思います。
それは、朗読箇所の最後、イエス様の次の言葉です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:20)。ここではもちろん、二人または三人が集まっているところに、イエス様もそこにおられるという意味なのですが、私はこれを、大司教様に当てはめて考えたいのです。
まず、皆さんにとっていちばん近くで大司教様とふれあうひとときとなった、三年前の堅信式のことを思い出してみましょう。大司教様は、堅信式で教会を訪問なさると必ず、車を早めに降りて、堅信を受ける子供たち、大人の受堅者としっかり握手をして下さいました。皆さんの中にも、大司教様と握手をなさった方がおられるのではないでしょうか?
私は思うのですが、堅信を受ける子供たちにとっては、もしかしたら堅信式以上に、思い出になることかも知れません。そこには、受堅者たちと今日の日を心から喜び合いたいという、司教様の気持ちが表れていたのでした。
司教様は、堅信式を終えると、教会の役員の皆さんと、小教区の現状について、食事を交えながら話に耳を傾けて下さいます。私はかつて、話が弾んで予定の時間を大幅にずれ込んだ場面に出くわしたことがありましたが、そわそわしている秘書の神父様に遠慮せず、どこまでも私たちの声を広い、歌が出れば歌も歌うという、あえて言わせてもらうと、庶民的な司教様だったのでした。
大司教様とは、聖地巡礼をご一緒させてもらうことができたのが、いちばんの思い出となりました。40名近い青年たちに混じって、4名の司祭が同行していたのですが、私もその中の1人でした。私たちは「反省会」と称して、毎日毎日、その日の終わりに喉を潤しに行ったのですが、ほどんどの時に、「私もご一緒させてもらえますか?」と言って、私たち若手司祭の声に親身になって耳を傾けて下さったのでした。当時67歳、いろいろの愚痴にも文句一つこぼさずに聞いてくださった司教様には、本当に頭が下がります。
司教様は、それこそ、どんなところにでも足を運んで人々の輪の中にいて下さったのでした。今日の聖書の中で、イエス様が、「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と仰ったのですが、それを文字通りに実行なさったのでした。イエス様は、私たちの中にとどまって、いつも、どんなときでも私たちを導いて下さるわけですが、大司教様もまた、私たちの中にとどまって、そこにいることで何かを教えて下さっていたのだと思います。
大司教様は、2月の研修会の時だったでしょうか、補佐司教様をいただいたことをことのほか喜んでおられました。補佐司教様をいただいたことを発表するときに、「教皇様に補佐司教をお願いしたのは、私が、休みたいからではなくて、司教の現存が、今まで以上に求められるようになってきたので、お願いしました」と仰っておりました。私たちは何でもかんでも、「司教様が来て下さったら、荘厳になる」と思って、教会の落成・殉教祭・黙想会の指導など、ありとあらゆる時に司教様においで下さいとお願いしてきました。その願いにていねいに答えるためには、大司教様おひとりでは無理だったので、補佐司教様をお選びになったというのですが、私には、どう考えても「お疲れだったんだな」としか思えないのです。
私には、一つ悔やまれることがあります。この太田尾小教区に赴任する前、滑石教会で自分の主任神父様を天国に送り届けることになったのですが、あとで、教会のありのままを大司教様に報告する機会を得まして、私はこんな事を言ったのです。
「大司教様、滑石教会の信徒は、今大きな悲しみの中にいます。これから、司祭の転勤をお考えになる時期かと思いますが、どうぞ、滑石教会の三千人の信徒を勇気づけるような牧者を、どうか、どうか良くお考えになって下さい」とお願いしたのです。それは、「私はこのまま、滑石教会にとどまりたい」という意思表示でした。
「はい、あなたの教会を思う熱意に応えられるように、りっぱな牧者を送りましょう」と仰ってくださったのですが、私は滑石教会にはとどまりませんでした。あの時、わたしは言ってはいけないことを言ったのかも知れません。「よく考えて下さい」と、私は大司教様に言うべきではありませんでした。それが今になって悔やまれます。
大司教様、今ようやく、ゆっくりできますね。よき牧者イエス様のもとで、いつまでも奪われない喜びを味わって下さい。そして、長崎教区のすべての民を、神様に取り次いで下さい。

来週の福音朗読
年間第24主日(マタイ18:21-35)