主日の福音2002.9.1
年間第22主日(マタイ16:21-27)
打ち明け話をした「このときから」が勝負

8月の鍛錬も終わって9月に入りました。今日の朗読は、イエス様が弟子たちに大切なことを打ち明けます。その様子を紹介するマタイは、「このときから」という言葉で始めております。このときからとはどのときからでしょうか?
「このときから」について、二つのことを考えておきましょう。一つは、直前に起こったことを思い出すこと、もう一つは、マタイ福音書の中で、同じような言い方がほかにもあるか、ということです。
直前に起こったことと言えば、それは8月の訓練・鍛錬のことです。弟子たちはイエス様の訓練を受け、自分たちの信仰を言い表しました。訓練に一定の成果が現れたわけですが、「そのときから」イエス様はさらに新しいことを打ち明け始めたということです。
もう一つ、同じような言い方がほかにもあるか、ということですが、マタイ福音書の中では「そのときから」という言い方があります。4章17節、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。ここでは、「そのときから、宣教活動が始まりました」という使われ方をしています。
そして今日の朗読箇所では、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とあります(16章21節)。この場合は、「このときから、宣教活動が完成に入りました」という使われ方です。
どちらもイエス様の御生涯の大きな転機に「そのときから」「このときから」と使われているわけです。マタイが意識して使っているのですから、私たちも読み解くためには考えておかないといけないでしょう。
さてイエス様は弟子たちに打ち明け話をしました。自分は、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。宣教活動の始まり(「そのときから」)に呼び集められて行動を共にし、8月の鍛錬を終えたあなたたちだから打ち明けるけれども、わたしはこれからこうなっていくんだよ、という思いだったでしょう。
弟子たちにはどう響いたのでしょうか?「苦しみを受けて殺され」というところははっきり聞こえてびっくりしたでしょうが、「三日目に復活する」は、驚きのあまり、ほとんど耳に入らなかったのではないでしょうか。「主よ、とんでもないことです」とペトロが声を上げるくらいですから。
イエス様の打ち明け話には、とても大切なことが込められていました。「これから宣教活動は完成に入っていく。それは、三日目に復活することだけじゃない。苦しんで、殺されることも入っているんだよ。分かるか?」弟子たちが理解できなかったとしても、イエス様の働きは完成間近だったので、もう打ち明けるときが来ていたのです。
すべてを打ち明けるときが来ていました。これからもしっかりついてきて欲しかったのですが、ペトロはイエス様の道に立ちはだかります。「弟子」とは、イエス様の前に立ちはだかる人のことではありません。イエス様にすべてを委ねて、ついていく人のことです。なのにペトロはどうしても自分の思い描く救い主を捨て切れません。救い主なのに、なぜ苦しみ、なぜ死なないといけないのか?やはり彼も人間です。「とんでもない。そんなことがあってはなりません」と、言いたくなるのです。
イエス様は、ご自分の生涯が完成に近づく中で、弟子たちが本物の弟子になってくれることを切に願っています。ここまではよくついてきてくれた。これからが正念場なんだ。わたしについて来たい者は、どうしても最後まで捨てられない「自分」を捨てて、従いなさい。
自分の人生こうであって欲しい、神様って、こうであって欲しい、私の夫は、私の妻は、私の子供はこうあって欲しい。それが捨てられなければ、本当の意味でわたしの弟子にはなれないんだよ、ということなんです。
自分を捨てますが、人生を捨てるのではありません。私の思い通りにしてしまおうという思いを捨てるのです。イエス様が持っているご計画が、あなたの思い通りでないときがあります。ここで「そんなことがあってはなりません」と腹を立てるのではなくて、「あなたのご計画に、私は従います」と答える人に変わっていけるように願いましょう。「そのときから」私たちはイエス様の本物の弟子になれるのですから。

来週の福音朗読
年間第23主日(マタイ18:15-20)