主日の福音2002,8,18
年間第20主日(マタイ15:21−28)
福音の力にあずかる機知を持とう

みなさんは、たとえば子供や孫の話す言葉を聞いていて、「よくまああんなことを思いつくねえ」と思うことはないでしょうか?わたしの身近なところで例を挙げますと、いよいよそこまで来ました小学生の球技大会で、あとで成績に見合ったところに連れて行ってあげるぞと言いましたら、「優勝すればどこそこまで行けるけん、そこより手前のあそこまでは行けるなあ」とか言ってるんですね。
優勝したら、三井グリーンランドまで行くと、自分たちで設定して、じゃあ嬉野のユーリプラッツまでは楽勝だなあとか、計算をしている。よくまあそんなことを言えるなあと、感心します。自分たちは、これだけの努力をして、ある程度の結果が見込めるから、ここまでは神父様にお願いできる。そういうことらしいです。
実はこの、子供たちが私に見せた、自信と言いましょうか、信頼と言うんでしょうか、ここまでは当てにできる、という態度を今日は見習いたいと思います。今日の福音を黙想するのにぴったりだと思います。
福音で登場するのは、イエス様と、弟子たちと、カナンの女性です。弟子たちは、ユダヤ人代表、イエス様は、今のところユダヤ人寄り、カナンの女性は、ユダヤ人からすれば救いから遠い外国人という立場です。
カナンの女性が、娘の心配を申し上げて、自分たち外国人を憐れんで欲しいと願います。この母親は二つの方法で願ったようです。一つは、大声で、叫び声で願いが聞き入れられないかと試みました。もう一つは、声の大きさではなく、外国人でも、ここまではイエス様にお願いできるはずだという固い信頼でした。
大声・叫び声のほうは、弟子たちにさえぎられます。弟子たちとは、ユダヤ人の代表です。イエス様に救われて当然と考えられている彼らは、お母さんよ、あなたが叫ぼうがわめこうが、あなたに関わっている暇はないのだ。とっとと帰りなさいという応対です。イエス様も、大声にはあまり興味がないらしくて、「何もお答えにならなかった」(23節)とあります。大きな声を出しても、イエス様の心を動かすことはできませんでした。
けれども、イエス様はもう一つの態度には多いに興味があるようです。興味を持っておられる証拠に、どんどんやりとりが進んでいきます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「主よ、どうかお助けください」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
結局、イエス様の心を動かしたのは、「ここまでは、救いから遠いとされている外国人の私たちでも当てにして良いはずだ。そうに違いない」という固い信頼だったのです。教会学校の子供たちが、「練習も一生懸命したし、ここまでは期待しても良いはず」と、信じて疑わない。ここまで確信を持ってせがまれたらですね、だれでもイヤとは言えないと思います。
カナンの女性は、弟子たちに対しても立派な信仰を示しました。外国人であれば、救ってください憐れんでくださいなどというのは、もってのほかだと考えていたかも知れませんが、それでも、ここまではイエス様に期待しても良いはずだ、そんな固い信頼で願うなら、難しい願いでも聞き入れてもらえるというお手本です。
弟子たちも、かつて、宣教に出かける訓練をしましたが、その時言われたのは、「イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」(10章6節)でした。一足飛びに、外国人に宣教するというのは、まだ時期が早いと考えていたのです。それは、イエス様と一緒にいた時もそうだったでしょうし、福音書が書かれた時代にも、そう考えていたのかも知れません。
けれども、カナンの女性の固い信仰は、弟子たちの殻を破り、そしてイエス様の心を動かしました。イエス様、仰るとおり私は外国人です。けれども、ここまでは願っても罰は当たらないでしょう?そうでしょう?何だか私には、子供たちのせがむ声のように聞こえてなりませんが・・
そしてこのカナンの女性の態度は、8月の私たちをも教育しようとしています。わたしの生活の中で、いろいろ神さまから遠い生活をしているかも知れない。でも、そんな私でも、これだけは期待して良いのではないだろうか?私は、誰に言い触らすでもなく、これだけはきっちり果たしてきている、ささげている、施している。だから、信仰深いとは言えなくても、憐れみを当てにできるはずだ。そんな、これだけは願えるはずという確信が、生活の中にあっても良いと思います。
どんなに教会を離れていても、自分にはこれだけは忘れていない、そういう部分があれば幸いです。少なくとも、ここだけはわきまえている。そういう部分は、絶対になくさないようにしましょう。ここは神さまに申し開きできる、そういう部分を徹底的に磨くこと、これが、今週の課題・宿題と私は見ました。

来週の福音朗読
年間第21主日(マタイ16:13-20)