主日の福音2002,8,15
聖母被昇天(ルカ1:39-56)
被昇天についての先達の考察に学ぶ

今日、全世界の教会が、聖母マリアの栄光を称えるためにミサをささげています。私たちローマ教会に属するカトリック教会は、8月15日の聖母の祝日を七世紀半ばからマリアのご死去の日として祝っておりました。それが、八世紀にはいると、マリアの被昇天の名前で祝われるようになりまして、今に至っております。

カトリック教会では、聖母の被昇天は教会として正式に認めている教え「教義」です。1950年にピオ十二世教皇様が『恵みあふれる神』という教皇文書を発表して、正式に「これは教会が信ずる公式の教えです」と宣言されたわけです。

この、『恵みあふれる神』という文書の中で、七世紀から八世紀に活躍したダマスコの聖ヨハネの説教を例にとって、処女聖マリアの遺体がまったく腐敗を免れただけでなく、天の栄光に上げられたと説明します。ダマスコの聖ヨハネは、マリアさまが受けたその他の恵みと結びつけて今日のお祝いをわかりやすく説明してくださいました。

ダマスコの聖ヨハネの考えはこうです。「出産に際して、処女を無傷に守ったマリアの体が、死後もあらゆる腐敗から守られるのは当然であった。創造主を子どもとして胎内に宿したマリアが、神の幕屋(天国)に行かれるのは当然であった。十字架上のわが子を眺めて、(中略)悲しみの剣を胸に受けたマリアが、父の右に座っておられるわが子を眺めることができるのは当然であった。神の母が、子がもっておられるものをもち、すべての人から(中略)敬愛されるのは当然であった」。

つまり、イエス様はマリア様の体を腐敗から守る力を持っておられたのだし、マリア様のほかの諸々の恵みから推し量っても、聖母の肉体が、腐敗を免れて天に上げられることは当然であり、何も不思議なことではないと考えたのです。ダマスコの聖ヨハネの考えはもっともだと思います。

幼い頃、私がマリア様の被昇天を教えてもらった時、どうしてお墓に入れられたからだが傷まないのだろうかと、子供心にあれこれ考えたものでしたが、のちに聖ベルナデッタの出来事を知るようになってからは、神さまが望むならば、そういうこともあるのだろうなあと納得しております。

1879年に聖女はお亡くなりになっていますが、123年経った今でも、息をしているのではないかと思われるようなお姿で多くの人の目に触れていますね。昨日も2年前の聖女の写真を入手してしげしげと眺めましたが、やはりそこに眠っているかのようなお姿でした。神さまの働きとしか言いようがありませんが、神さまにこうしたことがおできになるのでしたら、それは当然聖母マリアにもそうなさることができたと考えるのが自然でしょうね。

さて、マリア様のすばらしさは、私たちがお手本として受け取った時に、本当の意味ですばらしいものとなります。マリア様の生き方を鏡として私たちが生きる時、マリア様は本当の意味で輝くのです。そこで、今日、マリア様のお姿から私たちのお手本を拾うことにいたしましょう。

ダマスコの聖ヨハネの黙想したことから一つだけ拾ってみましょう。それは、「十字架上のわが子を眺めて、中略)悲しみの剣を胸に受けたマリアが、父の右に座っておられるわが子を眺めることができるのは当然であった」という部分です。イエス様の苦しみ、わが子の苦しみをともにしたマリア様は、当然わが子の栄光もいちばん近くでともにできるということです。

どういうことでしょうか?こういうことです。私たちが、いちばん身近なところで苦しんでいる人とともに苦しむなら、あなたは天の国では喜びをいちばん近くで味わえる。またいちばん身近な人の過ちを心から許すなら、天の国ではあなたが許されたものとしていちばん近くに寄せてもらえるということです。

まとめると、マリア様がイエス様とともに体験したことは、苦しみの部分も喜びの部分もすべてお手本であり、私たちが生活に取り込んで生きていくなら、マリア様のように、私たちも目を留めてもらえるということなのです。

そのためには、何よりもマリア様の姿をお手本として生活に取り込む必要があります。誰でも苦しみは避けたい。誰かにおいかぶせたい。ただ、マリア様の生き方は私たちにもきっとあてはまる。身近な苦しみをイエス様とともにしたから、イエス様と喜びもともにできた。同じことが、私たちにも期待されているのではないでしょうか?

イエス様の喜びと苦しみ、どちらにも結び合わされて生涯を全うしたマリア様に倣って、人生の喜びにも苦しみにもしっかり向き合って生きる恵みを願いましょう。そうして与えられるはずの、天国での喜びも、同時に願い求めることにいたしましょう。

来週の福音朗読
年間第20主日(マタイ15:21-28)