主日の福音2002,7,28
年間第17主日(マタイ13:44-52)
天の国のことを学ぶ学者を育てたい

皆さんはこういう経験がないでしょうか?長い付き合いの中で、ある人が180度性格が変わったというような体験です。たとえばちょっと自分と考え方の違う人に、今までだったらものすごく突っかかっていた人が、今はまるで別の人のように穏やかになっているとか、自分の言いたいことだけ言って、聞く耳を持たなかった人が、いつからかすこーし人の話を聞くようになって、変われば変わるものだなあ、というような経験です。

人がある時からがらっと変わるのは、必ず何かを経験して、思うところがあって変わっていくのだと思います。その人に何が起こったのか、つっかかってばかりという態度は、いつまでも許されるものではない、地域の人と折り合いを付ける道を学ばないといけない、そう思ったかも知れません。ある人は、少しはかあちゃんの言い分も聞いてあげないと、いつまでも勝手なことばかり言っていたら放り出されるかも知れないと、そう思ったのかも知れません。

本当のところは分かりませんよ。分かりませんけれども、少なくとも、その人は以前の態度を捨てて、新しい態度を身につけました。それは、見方を変えると、神さまの働きがこの人にあったのではないか、そう考えることはできるのではないでしょうか?今日はこの点を考えてみたいと思います。

朗読した聖書のたとえ話は、天の国を意識した人がどう振る舞うかをたとえで話したものです。畑に宝が隠されていると知った人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買おうとします。高価な真珠を一つ見つけた商人は、持ち物をすっかり売り払って、それを買いました。

畑の買い方を教えているわけではありません。高価な真珠の買い方を教えているのでもありません。持ち物をすっかり売り払って買おうとするのは、どう見ても賢いとは言えません。だから、畑の賢い買い方を教えているのではないのです。そうではなくて、畑・真珠という「この世そのもの」の中に「天の国」というすばらしいものを見つけたなら、あなたは「この世」をすべて売り払ってでも「天の国」を選びなさいと言いたいのです。

人が、がらっと変わる時というのは、きっと「この世」の中に「天の国」を見つけた時なのだと思います。物質や・地位・名誉しか頭に無ければ、人はそんなに変われないのではないでしょうか?けれどもそういう人でも、イエス様に出会えば、イエス様が説く「天の国」に目を向けるようになれば、たとえば「自分が謙虚になることは、自分にとって意味があるのではないだろうか」と考えるようになるのです。

私の人生はこの世限りではない。だったら、天の国に案内してくれるイエス様に、天の国に迎えてもらえる生き方を教えてくれるイエス様に心を開くべきではないか。いつも自分自分と言って、自分を押し通してきた生き方を売り払ってでも、イエス様の教えを買い求める必要があるのではないだろうか?人がほんとうに変わるのは、こんなイエス様との出会いの中でしか起こらないような気がします。

私たちは、がらっと変わったその人に何が起こったのかを知ることはできません。けれども、神さまの働きがあったのではないか、そう考えることはできます。ほんとうにその人が変わったのであれば、それは神さまの力、神さまと出会ったおかげです。素直に感謝したいと思います。

また、この人にいつか変わって欲しい。時間がかかってもいいから、いつか、「この世」のことしか考えない人から抜け出て欲しいと願うなら、できることは一つです。あなたが変わるために必要なことは、神さまと出会うことですよと、言葉や態度で教えてあげる、導いてあげることです。

私が偉いから、導いてあげるわけではありません。だれもが、いつかはこの世を売り払って、天の国を買い求めなければならないのです。そして今は、あなたがその人を導いてあげる時かも知れないのです。

私たちは、体験したことだったら伝えることができますが、知りもしないことは伝えられません。まずは私が天の国の宝のために、この世のものを売り払って手に入れる心を育ててまいりましょう。そして、一人でも多くの人が、天の国の宝がこの世に隠されていることに気付くように、祈りましょう。

来週の福音朗読
年間第18主日(マタイ14:13-21)