主日の福音2002.7.21
年間第15主日(マタイ13:24-43)
育つままにしておきなさいと仰った

子供たちの夏休みが始まりました。きょうのミサに参加した子供たちは、「夏休みになっても、私はミサに来て、神さまにお祈りしますよ」と言いに来た子供だろうと思っています。ときどき子供たちに言い聞かせているんですが、「お祈りに夏休みはありません」。それは大人の人にもあてはまりますね。信仰に夏休みはないはずです。
ですが、現実にはまめに教会学校に来る子供でも、日曜日のミサとなると、ぱたっと来なくなるケースもあります。さらに夏休み中の朝のミサ、ラジオ体操となると、これは連れてくる保護者によほどしっかりした信念・また生活習慣がないと、かなり難しくなります。
それでも、目の前の子供たちに、今受け持っているこの小教区の子供たちに、明るい兆しがないわけではありません。たとえば、この前の中学生の教会学校で、中学生の子供が(中学生ですよ)、「朝のミサとラジオ体操は、20日の土曜日からですか?」と聞いてきました。本人を目の前になかなか言いづらいですが、私はもう飛び上がるくらい嬉しかったです。
それは、神さまが蒔いた種が、家族をはじめ、私たち皆の見守る中で実を結んだと言うことでしょう。何十倍の実りかは、それはまだすべてを見たわけではないですから分かりませんが、イエス様のたとえの中では、最低でも30倍が見込まれていました。
ただし、ここからが今週の福音なのですが、成長していく種の中に、どこから入ってくるのか、敵は毒麦をまいて混乱させようとします。調べたところでは、毒麦というのは家畜が食べるぶんには問題ないみたいですが、人が食べると、めまいを起こしたりするそうです。毒麦は、いずれは抜いてしまう必要があります。
そこで問題になるのが、いつ抜くか?ということです。畑で働く僕たちは、「では、行って抜き集めておきましょうか」と、すぐに抜こうとしていたのですが、畑の主人は、僕たちを思いとどまらせようとしました。
私も、どうしても良くない芽は早いうちに摘んでしまおうと考えてしまいます。子供たちの話をしましたが、なかなか教会学校に来てくれない子供たちに、ようやく来てくれたその時に、「何でもっと続けて来ないの?もうちょっとがんばれよ」と、どうしても言ってしまうんですね。
めずらしく来た子供にも、「やっと来れた」という子供と、「気が向いたので来た」という子供といるでしょう。それでも、「ほかの友達はちゃんと来ているじゃないか」とやってしまうんですね。
私のやっていることは、どうもイエス様の思いから離れていると思います。たとえ話でイエス様が言おうとしていることは、畑の主人の言葉です。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)。良くないことが目についたからと、すぐに芽を摘もうとした私は、僕と同じことをしようとしたのです。
私はイエス様より先に、子供たちを裁いてしまおうとしていました。でもイエス様だったら、「両方とも育つままにしておきなさい」と仰るのだと思います。ただ、人間はたとえ話の僕と同じでせっかちですから、すぐに芽を摘もうとするし、すぐに結果をほしがる。ほんとうにイエス様を信頼して、導いていこうと思うなら、決めつけてはいけない、最後の判定はイエス様に任せて、精一杯お世話する必要があるのでしょう。
人間は、どうしても先に決めつけてしまう弱さを持っています。そこでイエス様は、まったく逆の態度を示します。育つままにしておきなさい。そう言われると私たちは皆、困ってしまうのではないでしょうか。不安になるのではないでしょうか?
それでも、どうしても「育つままにしておきなさい」というイエス様の言葉を受け入れるためには、これはもう徹底的にイエス様の側に立ってものを考えるしかありません。それは信じるということでもありますが、私たちができるお世話は精一杯した上で、あとのことは神さまが必ず正しく裁いてくださると、固く信じることだと思います。
いろんな場面で、私たちは試されています。生まれた時からカトリックというこの人と結婚したけれども、どうしても私はこの結婚相手を裁いてしまう。長崎教区全体、または小教区の話し合いでこうしましょうと決まったことに、なかなか簡単に協力してもらえない。あるいは中田神父のように、教会学校の子供が目の前に来ているか来ていないかで、良いか悪いかをほとんど決めてしまうなどです。
神さまが最後に判断してくださる。それをほんとうに信じることができるか、私たちはいろんなところで試されているんだと思います。イエス様は最後の言葉を言い忘れていません。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて蔵に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(30節)。絶対に最後は忘れていないと、ためらわずに信じることも、私たちにとって一つの挑戦なのだと思います。
イエス様に今この場で裁かれたら、皆、ひとたまりもないだろうと思います。生かされている、右に左にふらついている時も、順調に生活している時も、人を裁いてしまう時も。イエス様に刈り入れの時まで生かしてもらっているのだと思います。
生かされていることを決して忘れないために、イエス様が仰った「育つままに見守ってあげる」態度を、生活の中に取り込むことができるよう、ミサの中で恵みを願っていきましょう。

来週の福音
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